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島の館・捕鯨

島の館の1階第1展示室には、江戸時代の捕鯨の様子を忠実に再現した大型ジオラマや、捕鯨に関する資料が展示されています。

捕鯨1

所在地:長崎県平戸市生月町南免4289-1

捕鯨2

勇魚とり

勇魚とり(網取式捕鯨)
 この場面は、生月島沖の捕鯨の様子を8分の1で再現したものです。
(1)勢子船が鯨に曳かれています。船の舳先には背美鯨の発見を示す幟が立っています。鯨に刺さった萬銛は、船を曳く力で曲がっています。
(2)双海船が網を回収しています。網は、鯨が被った部分だけ離れる様に、つなぎ目を藁網で括っています。
(3)持双船から羽指が剣を投げています。上に向けて投げ、落下する力で鯨の皮膚をつき破ります。刺さると網を引いて回収し再び投げます。
(4)鯨にとりつくため羽指が海に飛び込んでいます。帰ってきた羽指がドンザを着て火にあたっています。
(5)羽指が鯨によじ登り、手形包丁で鼻を切っています。鼻に穴を開けた後、別の羽指が持って来た網を括って沈むのを防ぎます。
(6)羽指親父(船団の指揮をとる役)が采を振って作業の指揮をしています。
(7)2艘の持双船を持双柱で繋げています。柱の下に鯨を吊り下げて運びます。
(現地案内板より)

捕鯨3

勇魚とりの物語

取りもとったり2万頭、江戸時代最大の鯨組・益冨組
 生月では享保10年(1725年)から舘浦の田中長太夫と畳屋又左衛門正勝の共同経営の鯨組による突取捕鯨が始まります。田中長太夫が経営を退いた後は、漁場を島北端の御崎に移し、網を掛けて鯨の行き足を止めてから突き取る方法(網掛突取捕鯨)を採用して経営が軌道に乗り、畳屋氏は平戸の殿様から益冨という姓を貰います。
 その後益冨組は壱岐をはじめ西海各地の漁場に進出し、文政年間(1818年頃)には、5つの鯨組を経営するまでになり、西海のみならず日本一の規模を誇る鯨組へ発展します。益冨組が享保10年から明治6年までの間の142年間(中断期を含む)に捕鯨した鯨は21,790頭、収益は332万両に達し、最盛期には3千人以上の人々が働いていたと推定されます。
 鯨組による捕鯨の終了後も、平戸瀬戸や生月島沿岸で、捕鯨銃で破裂弾を撃ち込む銃殺捕鯨が細々と続けられましたが、明治時代の終わりには鰯巾着網が捕鯨に代わる島の基幹産業となっていきました。(島の館パンフレットより)

捕鯨4

展示室の空中に展示されているのは、ミンク鯨(手前)とツチ鯨です。共に体長10m程ですが、鯨の中では小型です。

捕鯨5

捕鯨6

鯨にとりつくため羽指が海に飛び込んでいます。帰ってきた羽指がドンザを着て火にあたっています。

捕鯨7

捕鯨8

捕鯨9

捕鯨10

捕鯨18

捕鯨11

捕鯨12

羽指親父(船団の指揮をとる役)が采を振って作業の指揮をしています。

捕鯨13

捕鯨14

捕鯨15

捕鯨16

捕鯨17

シャーギ

昔、生月の漁村の各家庭では、正月にシャーギ(シャーハギ)という魚飾りをしていました。魚は、必ず頭を家の奥に向け、泳ぎ込んでくる姿で飾ります。それには、大漁や福が家の中に入り込むようにとの意味が込められているのです。(現地案内板より)

捕鯨19

捕鯨20

捕鯨21

捕鯨22

捕鯨23


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