カトリック田平教会
大正4年(1915年)から3年の歳月をかけ、神父と信者たちの手で建設された教会です。正面中央部には八角形ドームを頂く鐘塔を付けた重層屋根構成の天主堂です。重厚な赤煉瓦造りで、中のステンドグラスは荘厳な美しさで人々に感動を与えます。
田平天主堂 カトリック田平教会
所在地:長崎県平戸市田平町小手田免19-19
着工:大正4年(1915年)
竣工:大正6年(1917年)10月
献堂式:大正7年(1918年)5月14日
構造等:三廊式教会堂、煉瓦造及び木造、桟瓦葺、正面塔屋及び左右側面出入口付
所有:カトリック長崎大司教区
管理者:カトリック田平教会
平戸瀬戸を望む丘の上に建つ赤煉瓦の田平カトリック教会は、「教会堂なら鉄川」、「教会建築の父」といわれた鉄川与助の設計施工によるものです。鉄川与助の煉瓦造り教会堂作品の中では最後の作品です。外壁の煉瓦積みも多才な手法を駆使した装飾性の高いものです。
イギリス積みのレンガ
煉瓦はイギリス積みで、交互に色の異なる煉瓦を積んでいます。色の濃いレンガは、信者さんのご家庭から、ナベや釜の煤を集めて、油に混ぜて塗って作ったものです。
アンジェラスの鐘
正面中央部には八角形ドームを頂く鐘塔を付けています。
アンジェラスの鐘は、フランスから取り寄せたものです。6:00と12:00と18:00に鐘がなります。
田平天主堂
外観内部とも均整の取れた構成であること、細部の意匠も優れていることから平成15年12月25日に、天主堂及び創建時の司祭館部分、貝殻焼き場、門柱、石垣、石段などの周辺も含めて国の重要文化財に指定されました。
明治初め禁教令の廃止後も、迫害にさらされながら信仰を守り続けたカトリック信者たちは、新天地を求め、五島などから本土へ移住してきました。明治19年、田平へも黒島や出律から最初の移住者が来ました。やがて信者は千人近くにも増え、明治33年頃には仮聖堂が建てられていたそうです。後に本格的な聖堂建設の機運が高まり、信徒は苦しい生活の中から積み立てをし、資金を集めました。建設に当たっては浜から約2kmの急坂をレンガや砂の荷揚げなど、子供から大人まで総出で作業しました。初代の移住者が入ってから献堂式まで実に32年もの歳月が経っていました。
鬼瓦
鬼瓦に十字が刻まれています。
平戸瀬戸を望む丘の上に建つ赤レンガの教会。「教会堂なら鉄川」といわれた鉄川与助の設計施工によるもの。
煉瓦造及び木造で、正面中央に八角形のドームを頂く鐘塔を付けた重層屋根構成の天主堂です。内部は参篭式で、身廊部の立面構成はアーケード・トリフォリウム(装飾帯)・クリアストーリー(高窓)からなる本格的な三層構成となっています。天井は木造のリブ・ヴォールト天井。外壁の煉瓦積みも多彩な手法を駆使した装飾性の高い者です。
明治初め禁教令の廃止後も、迫害にさらされながら信仰を守り続けたカトリック信者たちは、新天地を求め、五島などから本土へ移住してきます。明治19年、田平へも黒島や出津から最初の移住者が来ました。やがて信者は1000人近くにも増え、明治33年頃には仮聖堂が建てられていたようです。その後本格的な聖堂建設の機運が高まり、信徒は苦しい生活の中から積み立てをし、資金を集めました。建設に当たっては浜から約2kmの急坂を、レンガや砂の荷揚げなど、子どもから大人まで総出で作業しました。大正4年(1915年)整地作業にかかり、大正6年10月竣工、大正7年5月14に献堂式が行われました。初代の移住者が入ってから32年後のことでした。
鉄川与助の煉瓦造教会堂作品の中では最後の作品で、外観内部とも均整の取れた構成であること、細部の意匠も優れていることから平成15年12月25日、天主堂及び創建時の司祭館部分、貝殻焼き場、門柱や石垣、石段など、周辺も含めて国の重要文化財に指定されました。(現地案内板より)
聖母マリア像
ルルドの聖母像が立つ側の入口です。ここにもステンドグラスが施されています。