按針の館
三浦按針こと、ウィリアム・アダムスが住まいとしていた建物です。
所在地:長崎県平戸市木引田町431番地
三浦按針が貿易に関する仕事をする際は平戸に足を運び、木田弥治右衛門宅(現在の按針の館)を住まいにしたと伝えられています。
豊後の臼杵(現大分県臼杵)に漂着したデ・リーフデ号の航海長だったウィリアム・アダムスは、引見後、徳川家康に気に入れられ、外交交渉の通訳をしたり、外交のアドバイスをしたり、幾何学や数学、航海術などの知識を家康以下の幕閣に授けたと言われています。1602年には、御用商人の娘、お雪(マリア)と結婚し、後に息子のジョゼフと娘のスザンナが生れ、祖国へ戻りたいという希望を果たせぬまま、1620年に平戸で没しました。
現在は1階に菓子舗「平戸蔦屋」が店舗を構えています。
按針の館
イギリス人ウイリアム・アダムスは、オランダ艦隊の航海長として、マゼラン海峡を経て1600年豊後に漂着しました。日本に着いたのは5隻の艦隊のうちリーフデ号ただ一隻、2年の歳月と481人の乗組員の中で動けるもの十数名という過酷な航海でした。
時は関ケ原の戦いの年、徳川家康の外交顧問として、神奈川県三浦郡逸見村に知行地を受け、三浦按針と名乗りました。平戸の城主松浦鎮信は漂着したリーフデ号の乗組員をマレーのバタニへ送り届けたことで、1609年オランダ商館が建ち、1613年にはイギリス商館が設置されました。平戸には堺の上人などが多く集まり、西の都として栄えました。
按針は日本と交易する諸外国と公平な立場から商館には住まず、当・木田弥治右衛門宅を住まいとし、在宅中はイギリス国旗を掲げて、1620年5月16日57歳にして病に倒れ、遠見るの外人墓地に埋葬されています。当時三浦按針が住まいとしたことから、当屋敷を按針の館とよんでいます。(現地案内板より)