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黄檗宗 聖寿山 崇福禅寺

黄檗宗の寺院です。興福寺・福済寺とともに長崎三福寺に数えられています。

崇福禅寺15

所在地:長崎県長崎市鍛冶屋町
寛永6年(1629年)長崎で貿易を行っていた福建省出身の華僑の人々が、福州から超然を招聘して創建しました。中国様式の寺院としては日本最古のものです。福建省の出身者が門信徒に多いため福州寺や支那寺と称せられていました。

崇福禅寺16

崇福禅寺6

海西法窟の扁額

崇福禅寺21

崇福寺大雄宝殿

国宝指定年月日:昭和28年3月31日
所有者:崇福寺
 本尊に釈迦(大雄・だいおうの読みもある。)を祀る。中国で切組み正保3年(1646年)建立した。寄進者は唐商何高材。長崎に現存する最古の建物。はじめ単層屋根であったが、天和元年(1681年)魏志えん(王ヘンに炎)が日本人棟梁を使い、入母屋屋根の上層を付加し、現在の姿になった。
 特徴としては、軒回りの擬宝珠付き垂花柱が珍しい。前面吹き放ち廊下のアーチ型の天井は、俗に黄檗天井と呼ばれ、黄檗建築独特のものである。下層部の当初材は広葉杉(こうようざん)と推定される。
 殿内の釋迦三尊や十八羅漢の仏像群と寺内の聯(れん。柱にかける文字を書いた板)や額(但し、隠元即非・千がいが書いたものだけ)は県指定有形文化財。
長崎県教育委員会・長崎市教育委員会(現地案内板より)

崇福禅寺7

大雄宝殿の扁額

崇福禅寺12

崇福禅寺10

崇福禅寺9

崇福禅寺19

崇福禅寺26

崇福禅寺11

逆凝宝珠束

崇福禅寺18

逆凝宝珠束

崇福禅寺14

逆凝宝珠束

崇福禅寺20

崇福禅寺17

鬼瓦

崇福禅寺25

鬼瓦

崇福禅寺31

崇福禅寺4

崇福寺 護法堂

国指定重要文化財指定年月日:明治43年8月29日
所有者:崇福寺
 中央に観音、向かって右に関帝、左に韋駄天を祀るので、天王殿・関帝堂・韋駄殿・観音堂などの別名がある。黄檗天井・柱上部籐巻・挿肘木・扇垂木・鼻隠板・半扉など、中国様式であるが、屋根の妻飾は日本風であるから、軸部を中国で切組んだものを唐船で運び、日本人棟梁が建てたものと思われる。大梁下面に享保16年(1731年)に建てた旨の墨書銘がある。梅花奇獣の浮彫りのある柱礎も中国製である。昭和58年~昭和60年の修理で、当初材は広葉杉(こうようざん)であることが確認された。
[指定の経過]
明治43.8.29:特別保護建造物(古社寺保存法)
昭和4.7.1:国宝(国宝保存法)
昭和25.8.29:重要文化財(文化財保護法)
長崎県教育委員会・長崎市教育委員会(現地案内板より)

崇福禅寺1

乾坤正氣の扁額

崇福禅寺22

国寶 護法堂と記されています。

崇福禅寺13

法海慈航の扁額

崇福禅寺2

花頭窓

崇福禅寺3

威徳荘嚴の扁額

崇福禅寺23

崇福禅寺24

崇福禅寺27

大釜

市指定有形文化財指定年月日:昭和43年11月20日
所在地:長崎市鍛冶屋町7-5
所有者:崇福寺
 延宝8年(1680年)に起きた不作により米穀不足となり、長崎にも餓死者が出た。これを救済するため、延宝9年(1681年)正月には福済寺が施粥を始めたが、当時、崇福寺は寺内工事のため施粥はできず、工事が終わった9月15日から第4代住持であった千呆は町に托鉢に出て施粥を始めた。翌天和2年(1682年)2月大釜を造り、4月14日に完成、大釜を鍛冶屋町から車に乗せ崇福寺本堂前のかまどに乗せた。5月15日に施粥を終えたという。
 大釜は、口径6尺5寸(約1.97m)、深さ6尺(約1.82m)、鋳造は、長崎の鋳物師阿山家の二代弥兵衛によって製作されたと推定される。釜の廻りに『聖寿山崇福寺施粥巨鍋天和貮年壬戌仲春望後日』の銘がある。大釜は、その後現在の鐘鼓楼の位置に移され、次に誤護法堂との間に移り、明治36年(1903年)に現在の位置に移された。
長崎市教育委員会(現地案内板より)

崇福禅寺8

崇福禅寺29

けつぎょ

崇福禅寺28

鐘鼓楼

崇福禅寺5

鐘鼓楼


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