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東明山 興福寺

黄檗宗の開祖・隠元禅師ゆかりの寺で、別称あか寺・南京寺とも呼ばれている、日本最古の黄檗宗の寺院です。

興福寺1

所在地:長崎県長崎市寺町4-32
創建:寛永元年(1624年)
開基:真円
本尊:釈迦如来
山門が朱塗りのため、あか寺とも呼ばれています。

興福寺

黄檗宗 興福寺 山門

この山門は元禄3年(1690年)に再建されたものです。3間3戸八脚門の入母屋造単層屋根・総朱丹塗りの豪壮雄大な外観です。細部様式は斗きょう・蟇股・繰型等、和風様式を基調とする日本人工匠の手になるものです。隠元禅師は滞留1年、明暦元年(1655年)に東上しましたが、この門の背面梁上扁額「初登宝地」は隠元の筆です。

興福寺2

今から約三百八十年前、明の高僧眞円によって開かれ、市民に「あか寺」と呼ばれ親しまれてきました。我が国最初の黄檗禅宗の唐寺で、宗祖隠元(いんげん)禅師が中国より初めて日本に渡海され住持した宝地であり、眼鏡橋を架けた黙子如定(もくすにょじょう)禅師、近世漢画の租逸然(いつねん)禅師など、そうそうたる中国高僧が住持したことでも知られます。多くの重要文化財を含め、そのゆったりとした景観に感動を覚える拝観者は県や国内外からも訪れます。(現地案内板より)

興福寺3

大雄宝殿

本堂を大雄宝殿と呼ぶのは、釈迦(大雄)を本尊として祀ることからきています。

興福寺4

蘇鉄

樹齢四百年の蘇鉄の木、今も伸び続けています。

興福寺5

大雄宝殿(本堂)

材料は中国で切り込み、中国から招いた工匠が作った純中国式建築です。

興福寺6

火除け瓢瓶

高さ1.8mある大棟の瓢瓶(ひょうへい)は、災害が振りかかると瓢瓶が開いて水が流れ、本堂を包み込むという意味がある火除けのおまじないです。

興福寺9

扁額

「大雄寶殿」、「萬載江山」、「航海慈雲」の扁額が掲げられています。

興福寺10

興福寺16

アーチ型の黄檗天井

興福寺11

アーチ型の黄檗天井

天井が、蛇腹状になっています。

興福寺12

氷裂式組子の丸窓

国指定重要文化財・大雄宝殿は明末期の純粋な中国建築様式で、その大きな特徴は黄檗天井とよばれる蛇腹型いわゆるアーチ型の天井と正面両脇にある氷裂式組子は文字通り氷を砕いたような文様で大変珍しいもの。組子とは、釘を使わずに木を組み付ける技術のことで、細く引き割った気に溝・穴・ホゾ加工を施し、カンナやノコギリ、ノミ等で調節しながら1本1本組み付けしていくものである。
 創建当時は組子の裏側全体が硝子張りになっていて、陽の光に輝いて、まるでステンドグラスのような美しさだったという。しかし、第二次世界大戦の原爆投下で興福寺の本堂である大雄宝殿も爆風で大きく傾いた。幸いに裏の石垣に支えられて助かったもののい、正面の格子戸や丸窓も全て吹き飛んでしまった。戦後45年かかって現在の建物は修復がなされたが、残念ながら組子裏面の硝子を施すことは出来ず、板張りの状態で修繕を終えた。
 明末期を代表する建築様式である氷裂式組子は、現在の中国でもこれだけ大きく巧緻なものはもはや残っていないという。(現地案内板より)

興福寺13

興福寺15

興福寺17

魚板(けつぎょ)

正式の名称は「はんぽう」(飯・木ヘンに邦)。僧達の飯時を告げるために叩く板の魚です。この魚板は全国の禅寺にあるものの中の最優秀作といわれます。けつ魚は揚子江にいる幻の魚といわれています。この魚板が雄、左奥のが雌で、このように雄雌一対でかかっているのは珍しく、また何百年物間叩かれたのであの様に腹部が凹んでおります。叩くと「コーンコーン」と案外遠方まで聞こえます。(現地案内板より)

興福寺18

けつ魚の雄

雄のけつ魚は、口に玉を含んでいます。この玉は欲望を意味し、これを叩いて吐き出させるという意味を持っています。

興福寺19

けつ魚の雌

雄より少し小ぶりで、丸っこい形をしています。何度も叩かれたため、お腹の部分が欠損しています。

興福寺20

けつ魚

庫裡の入口にさがる巨大な魚鼓は、寺院の衆に飯時などを告げた江南のけつ魚の木彫。日本に唯一残る明朝魚鼓の枠。
僧侶たちが、時を知らせるために叩いたもので、木魚の元になったものです。雄雌ペアで揃っているのは大変珍しく、縁結び寺といわれる由縁の一つでしょう。(現地案内板より)

興福寺21

巾着が彫られています。

興福寺22

鬼瓦

興福寺14

興福寺7

顔が彫られています。

興福寺23

木鼻

興福寺24

興福寺の由来

黄檗宗東明山興福寺は、元和6年(1620年)唐僧・真円によって創立されました。2代唐僧・黙子如定は眼鏡橋の仮設の指導者として知られ、3代唐僧・逸然は唐絵を初めて広めた近世漢画の租と言われています。
いんげん豆で有名な隠元禅師は、承応3年(1654年)に中国福建省から長崎に来て興福寺に入山し、のちに京都府宇治に黄檗山萬福寺を建てて、日本の黄檗宗の宗祖となりました。
興福寺は、長崎の唐寺の中で一番早く建てられた寺で、通称「赤寺」と呼ばれており、寺内のほとんどが文化財に指定されています。
国指定重要文化財:大雄宝殿(本堂)・旧唐人屋敷門
県指定重要文化財:山門・鐘鼓楼・三江会所門・長崎聖堂・媽祖堂・境内全域(史跡)(現地案内板より)

興福寺25

隠元隆琦禅師

黄檗宗の開祖隠元禅師は中国福州から承応3年(1654年)長崎へ渡海、興福寺住職として1年滞在した。将軍家綱に謁見したのち京都の宇治に万福寺を開山。黄檗宗の渡来は日本の建築、彫刻、絵画、書、茶、料理に多大の影響を与えた。禅師が中国から携えた豆はいんげん豆として現在も食卓にのぼる。後水尾天皇より、大光普照国師の号を贈られた。(興福寺パンフレットより)

興福寺8

黄檗宗のポスター

「あなたの暮らしにも隠元さんの影響が」
 ダイニングテーブルを隠元さんが持ってきた?と驚くかもしれません。日本では昔、自分のお膳で、身分が決められた位置で食事をしていました。隠元さんが伝えたのは丸いテーブルで、身分の上下の分け隔てなく、みんなで食事をしたのです。これは当時、画期的なことでした。
 食材では、いんげん豆、もやし、西瓜、蓮根、孟宗竹、落花生、茄子、金針菜などで、いんげん豆は、天候不順に強く、飢饉に供えて持ってこられたそうです。もやしも、栄養価が高く、長崎では早くから自家製のもやしが流行しました。
 料理では、ごま和え、胡麻豆腐、けんちん汁などが、寺の精進料理から、一般の人々に広まりました。
 もちろん、書、絵画、建築様式、象嵌、篆刻、印鑑、木魚、明朝体文字などなど、現代にも様々な形で隠元禅師の黄檗文化が残されています。(現地案内板より)


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