龍馬通り
幕末時代の息吹を感じる歴史探訪路です。寺町通りの深崇寺と禅林寺の間から龍馬ゆかりの地・亀山社中跡を経て、風頭公園へ至る石段まじりの坂道です。
所在地:長崎県長崎市寺町~長崎市風頭町
坂本龍馬をはじめとした亀山社中の同志達が、どこへ行くにもこの通りを上り下りしていたというこの道筋は、現在「龍馬通り」と呼ばれ地域の人や観光客に親しまれています。
「長崎歴史探訪路」として整備され、所々に休み石が置かれ、風景や花木をゆっくりと眺められるよう配慮されています。また、龍馬ゆかりの地への道先案内役として、小さな龍馬さんがあちこちにいます。
我に続けと龍馬さん 大きくふくらむ 私の夢も
人生も 一歩一歩の 積み重ね
世界にとどけ 私の夢を でっかい希望に燃えている
よし行くぞ やる気十分 輝く未来
今開け 君のやる気が 明日を築く
どんとこい ふき出る魂 龍馬に続け
さあ続け この困難が やがては愉快パラダイス
我龍馬 君も龍馬だ 日本を拓く
強くて優しい龍馬さん 私もなりたい 龍馬さん
龍馬通り リリーフ参上 心機一転
よか眺め 一目千両 坂の街
見晴らせば 昔が今に めぐる街
鐘の音も かけあがるなり 龍馬坂
ひとやすみ 語ろう歴史 探訪路
ランタンも 風情をそえる 石畳
かぜぬける りょうまどおりで ひとやすみ
あかねさす 一幅の絵か 西の山
Welcome!亀山社中へ 100メートル 近藤長次郎
近藤長次郎は、高知県生まれ(1838年~1866年)
幼い頃から学問・武術を好み、江戸にも遊学して高島秋帆からも砲術を学びました。勝海舟に入門し神戸海軍操練所でも修行を続け、慶応元年(1865年)の亀山社中結成に参加し、「龍馬の片腕」と呼ばれました。この年、薩摩藩の名義を借りた、長州藩のための軍艦・武器購入の計画が起ると、中心的役割を果たしました。しかし、慶応2年(1866年)英国への単独渡航の計画が露見し、盟約違反に問われて、長崎の小曾根邸内で切腹しました。のちにそれを知らされた龍馬は、「おれがいたら殺しはせぬのじゃった」と、妻・お龍に語っています。近藤の墓は、現在でも長崎市寺町の晧台寺に残されています。(現地案内板より)
ようこそ!亀山社中へ 60メートル 陸奥宗光
陸奥宗光は、和歌山県生まれ(1844年~1897年)
明治の外交官、政治家。文久3年(1863年)勝海舟に入門。神戸海軍操練所に学び、坂本龍馬と交友を深めました。その後、亀山社中、海援隊と、終始龍馬と行動を共にしました。龍馬は陸奥宗光の才能を高く評価し、「大小の刀を取り上げても路頭に迷わないのは、僕と君のみ」と語っています。また、陸奥宗光は長崎で外国人の家庭に住み込み、英語を学んだとも伝わっています。明治以後は政府に入り、農商務大臣・枢密顧問官をつとめ、明治25年(1892年)外務大臣となり条約改正と日清戦争の外交指導に尽力しました。(現地案内板より)
おつかれさまです。亀山社中は左です。 石田英吉
光源寺日曜学校
ひかり子ども会発祥の地
明治42年6月6日光源寺で開校された光闡日曜学校は、それより前にすでにこの地で越中聞信師によって産声をあげていました。その後、越中哲也、楠達也、楠直也と受け継がれ、現在にいたっています。
平成21年11月3日 光源寺ひかり子ども会 100周年記念実行委員会一同(碑文より)
手づくり郷土賞
長崎歴史探訪路
この「手作り故郷賞」は全国各地で歴史、伝統、文化を生かして優れた街づくりを進めている地域に建設大臣から贈られる賞です。伊良林地区が長崎歴史探訪路としてこの賞を受賞したことは大変名誉なことであります。今後も歴史的雰囲気を継承し風情ある道筋として、この賞に相応しく親しみやすい街づくりに励みましょう。伊良林平自治会(現地案内板より)