旧唐人屋敷入口
旧唐人屋敷の入口です。唐人屋敷の範囲は現在の館内町のほぼ全域でした。総面積約9400坪で、出島の約3倍もの広さでした。
旧唐人屋敷入口
所在地:長崎県長崎市館内町 築町電停から徒歩8分の所にあります。
唐人屋敷は、密貿易などを防ぐ目的で作られた中国居留地です。かつては、約200人が暮らせる長屋が数十棟建設ち並んでいました。
唐人屋敷跡
唐人屋敷は、元禄元年(1688年)に密貿易を取り締まるため長崎村十善寺郷のこの地に造成され、元禄2年(1689年)4月に完成しました。敷地は8,015坪(後に9,373坪余に拡張)で、煉塀と竹矢来で二重に囲まれ、2階建の瓦葺き長屋が20棟あり、2,000人から3,000人の中国人を収容することができたといいます。地主神を祀る土神堂のほか、東南の隅に天后堂が、東北の隅に観音堂(関帝堂)が祀られています。(現地案内板より)
唐人屋敷の歴史
1639年、外国貿易は中国とオランダの2国のみとなり、貿易のために来航したオランダ人は出島に住まわせましたが、唐人(中国人)たちは、長崎市内に散在することが許されていました。しかし、密貿易やキリスト教伝播の恐れがあったため、1689年、江戸幕府は、現在の十善寺地区に唐人屋敷を建設し、唐人たちを住まわせました。唐船で長崎に着いた唐人たちは、役人の厳しいチェックを受けた後、わずかな手回り品のみを持って、唐人屋敷へ入りました。
唐人屋敷は、高い塀で囲まれ、さらにその外側は堀や竹垣で囲まれていました。出入り口には番所があり、人の出入りが厳重に制限されていました。唐人は、ひとりで外出することは許されず、外出が認められるのは、唐寺へ団体で参拝するときなどに限られていました。唐人屋敷の敷地内には、木造の長屋が数十軒建ち並び、多い時には約2千人の唐人が生活しいていたといわれています。
1859年日本が開国すると、唐人屋敷を出て大浦の外国人居留地や新地に進出した唐人も多く、唐人屋敷は荒れ果てていきました。その後、1868年に正式に解体され、唐人屋敷は179年の歴史を閉じたのでした。(長崎市都市計画部まちづくり推進室・リーフレットより)