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大浦天主堂

大浦天主堂は、慶長2年(1597年)に日本で最初に殉教した日本26聖人たちに捧げられた教会です。日本に現存するキリスト教教会の中で最古の建物です。

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正式名称:日本二十六聖殉教者天主堂
所在地:長崎県長崎市南山手5番3号

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工事竣工:文久元年(1864年)12月29日
建設:天草出身の棟梁・小山秀之進
基本設計:フランス人司祭 ベルナール・プティジャンと横浜から来た ルイ・テオドル・フューレ神父

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慶應元年(1865年)2月19日に祝別式が行われ、日本二十六聖殉教者天主堂(日本二十六聖殉教者聖堂)と命名されました。
昭和8年(1933年)1月23日に国宝に指定されました大浦天主堂

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江戸時代、まだ禁教の時代にフランス人のために建てられた教会で、フランス寺とも呼ばれていました。現存する日本最古のゴシック建築で、ナマコ壁などの日本建築の技法も取り入れられています。隠れキリシタンが250年の時を経て、フランス人神父と出会った場所でもあります。

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天主堂

天主堂という呼び方は現在ではあまり使われず、教会堂という呼び方が一般的です。しかし、大浦天主堂と呼ばれたのは、大浦天主堂正面に書かれている「天主」という言葉から来ています。宣教師達は中国で使われていた天主(神様のこと)という言葉を使って、自分たちが新しい教え、神様のことを布教したいという思いが込められています。そのため、その当時はまだカトリックという言い方は使われず、宗教法人としても、天主教団(公教団)という名称を使っていました。このため戦争前に建てられた教会は天主堂と呼ばれていたため、文化財の指定時に○○天主堂としたため、行政文事では天主堂ですが、現在の教会ではカトリック○○教会と呼ばれています。

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日本之聖母

大浦天主堂の入口中央にある白亜のマリア像のことです。
高さ:4尺7寸(約1m42cm)
礎石:高5尺(約1m50cm)・巾2尺(約60cm)
その礎石には、「慶応元年三月十七日 日本之聖母 信徒発見記念」と刻まれています。

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この像は、日本に数多くの隠れキリシタンたちがいたというビッグニュースが全世界に伝えられた後、フランスからその記念に贈られてきたもので、プティジャン司教はこれを最初、慶応元年(1865年)の6月2日に天主堂の門前に据付、日本信徒発見の記念祭典を盛大に催しました。その後天主堂の改築に伴い、聖堂の2倍の大きさに広げられたときに、現在のように、入口正面に据付けられたものです。 「日本之聖母」という、名称はプティジャン司教がその聖式の中で述べているように、「『日本之聖母』という称号は、いま新たに聖母に捧げられたからというのではなく、日本の教会は、はじめから聖母のご保護の下にありました。」、「教皇様が困難なこの国の布教を私に信託されたときに、私は我が身も、我が教会もすべて慈悲深い聖母に捧げました。」ということから、「日本之聖母」と命名されているのです。(大浦天主堂パンフレットより)

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教会内部

大浦天主堂はゴシック様式で、内部にはステンドグラスがはめこまれ、天井にリブヴォルト天井(こうもり天井)の方式で、つり天井の様になっています。

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正面祭壇

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十字架のキリスト

大浦天主堂のステンドグラスは、正面祭壇奥に掲げられた『十字架のキリスト』像(幅1.5m・高さ3m)に代表されます。これは、1865年天主堂の建立を記念してフランスのマン市のカルメル修道院から寄贈されたものです。十字架上のキリストとその右に立つ聖母マリア、左には使徒ヨハネ、また十字架の下にひざまづくマグダレナ・マリアを描いたものです。日本で最も古いものに属するといわれていましたが、原子爆弾の爆風によって大破し、今日のそれは、戦後の復旧工事でパリのロジェ商会に発注したものです。(大浦天主堂パンフレットより)

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