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髙木元右衛門源直久像

髙木元右衛門は菊池市深川の出身で、幕末の勤王派の志士であり、笛の名手でもありました。

髙木元右衛門源直久像1

所在地:熊本県菊池市隈府1番地
わいふ一番館の前に髙木元右衛門源直久像が立っています。

髙木元右衛門源直久像2

碑文

髙木元右衛門は、菊池市深川の出身で、作家司馬遼太郎氏の『竜馬が行く』には剣豪として又、笛の名手としてたびたび登場する幕末の勤王派の志士であります。
 御所通りは、中世南北朝の時代に肥後守護職第15代の菊池武光公や第16代武政公により、京都の町並みを模して造られたといわれ、御所小路、中小路、南小路の名称と町屋や松囃子御能などに代表される。歴史・伝統・文化が色濃く残る空間です。
 地元住民による『御所通り景観形成協議会』は、県指定を受けたまちづくりを進め、一方では、郷土の偉人として髙木元右衛門を顕彰するため、ここ『わいふ一番館』で数回にわたり企画展を開催してきました。
 この度こられの取組みと熱意が通じ、財団法人日本宝くじ協会のご協力により緑の地、御所通りに髙木元右衛門のモニュメントとしての銅像を建立することが出来ましたことに深く感謝します。
平成22年11月吉日 御所通り景観形成協議会 開帳 久保房儀 外会員一同(碑文より)

髙木元右衛門源直久像3

制作 日展評議員 石原昌一

髙木元右衛門源直久像4

髙木元右衛門源直久

1833年~1864年
髙木家の祖先は近江高城の出で、永正年間(1504年~1520年)菊池氏に仕え、滅亡後は菊池郡深川村(現・菊池市深川)に住んだ。代々軍陣笛方の家柄で、加藤清正・忠広父子、細川歴代藩主に仕えた「笛一筋」の笛師であった。
 髙木元右衛門は、天保4年(1833年)、父甚之助の次男に生まれた。笛師の家業を継ぎ、兄治三兵衛の剣術道場で、剣術・柔術・居合術・槍術を修得した。元右衛門の門人も380余人を数えた。特に剣術・槍術では、藩内外の他流試合で勇名を馳せた。一時期、玉名郡荒尾村の宮崎家養子となった。
 元右衛門は、尊王攘夷の志が厚かった。元治元年(1864年)6月、京都池田屋で長州・土佐・肥後藩の尊攘派らと会合中、新選組の近藤勇・沖田総司らの襲撃を受けた。肥後藩の宮部鼎蔵は自刃、松田重助は斬殺された。元右衛門は、近藤勇に脇差と短刀で応戦、その包囲を脱出した。
 翌7月、長州藩兵の先鋒として、会津・薩摩藩兵の警護する「禁門」(蛤御門)に、料亭に抜刀振りかざして斬り込んだ。会津藩兵の銃弾は股と隔(胸と腹の間)を貫通、その勇猛さと壮絶な死姿に首級を挙げ得なかったという。享年32歳。
 墓は深川共同墓地の北隣り、髙木家墓所内にある。また京都霊山神社境内には、長州藩巡死者の墓標群の中央に「肥後 髙木元右衛門源直久墓」が建っている。
2010年10月吉日 文学博士 提 克彦 謹書  (現地案内板より)

髙木元右衛門源直久像5

髙木元右衛門源直久像6

討ち入りの朝 辞世の歌

太刀刀 抜き放ちたる 今日よりは 治まる御代の 始めとぞ知れ

髙木元右衛門源直久像7

髙木元右衛門源直久像8

髙木元右衛門源直久像9

髙木元右衛門源直久像10


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