船場橋
江戸末期に造られた石橋です。壁石には安山岩、高欄親柱には地元で馬門石と呼ばれるピンクの阿蘇溶結凝灰岩を使用しています。肥後の石工の優れた技術が偲ばれる美しい橋です。
所在地:熊本県宇土市船場町
橋長:13.7m 橋幅:4.1m
石造単一アーチ橋
架設:安永9年(1780年)
船場橋
船場橋は長さ13.7m、幅4.1mの石造単一アーチ橋で、輪石35個を使った熊本方式の石橋です。壁石は安山岩、高欄はピンク色の馬門石を使っています。
この高欄親柱は表面がかなり風化していますが、船場橋の文字も刻まれています。路面は三和土で、現在は養生のために三和土層の上に馬門石敷を行っています。
元禄期の古図には、船場上流にある五丁目橋と並んで船場橋が描かれていますが、この頃はまだ土橋であったと思われます。
現在の石橋になったのは安永9年(1780年)といわれていますが、石工はわかっていません。当時は五丁目橋も石橋で、ともにめがね橋と呼ばれていました。しかし、五丁目橋は、馬車の通行に不便ということで木橋になり、その後現在のコンクリート製橋になりました。(現地案内板より)
船着場と石畳
江戸から明治にかけて、船場は馬ノ瀬、御倉床、新開の湊と並んで宇土の代表的な船着場としてたいそう賑わいました。
この石段は船着場の遺構であり、物資を積んで船場川を遡ってきた船が荷揚げをしたところです。このような荷揚場の石段は江部地蔵から三ツ又までの間に右岸に6個所、左岸に5個所、石の瀬川に4個所ありました。また、今は確認できませんが石段脇には船繋石もあったと思われます。
この船場橋際の船着場の前には細川藩蔵屋敷があり、「荷揚げした米を蔵まで運び入れる際、こぼしても集めやすいように」という役人の命で板石が敷き詰められました。この石は、船場橋と同じピンク色をした馬門石(網津川流域の馬門でとれる阿蘇溶結凝灰岩の一種)で、轟泉水道樋管・井戸枠や石小路町の天神様の鳥居などにも使われています。
石段
石段
石段
轟泉水道井戸
敷地右手の馬門石製の井戸は轟泉水道の末端にあたります。2代宇土細川家藩主、細川行孝によって江戸時代前期に完成された水道は、轟水源から宇土城下町を抜け、船場川へ至る約3.0kmという大規模なものでした。
当初は松橋焼の土管が使われていいましたが、後に馬門石に取り替えられました。当時船場は交通の中心として栄え、ここから出港する船は上納米などの物資とともにこの井戸の水を積み込みました。
また、轟泉水道は船場川を超えることがなかったため、石小路町からっこまで水をくみに来た人々もいたようです。しかし、この井戸も上水道の普及にともない使用されなくなり、樋管も一部破損し、途中までしか水が流れていません。(現地案内板より)
井戸
船場加賀のエノキ群
所在地:宇土市船場町、石小路町
指定区分:市指定天然記念物
≪概要≫
船場川両岸に並ぶエノキ群は、夏には川もに深い緑のかげを映し、船場橋や蔵屋敷とともに、涼やかで落ち着いた風景をつくりだしています。
エノキはニレ科の落葉樹で、幹は灰色で直立、枝は多く分岐しています。子ども時代に、この実を竹筒の中につめて押しはじく「エノミ鉄砲」で遊んだ人も多いでしょう。
船場川の両岸に並ぶエノキは、左岸(船場町)に4本、右岸(石小路町)に6本(うち手前から2本目はムクノキ)生えていましたが、平成3年に台風の被害を受け、左岸の2本は倒木し、現在8本が市の天然記念物に指定されています。
幹周りが3メートルを超える大木もあり、古いものは樹齢150年から200年になるといわれています。
平成13年7月 宇土市教育委員会(現地案内板より)
川
川
リフレッシュ船場橋
水は命の源であるとの思いから、この船場川のクリーン作戦を1986年より展開してまいりました。その市民の総意の中から船場橋をリフレッシュしようとの運動が盛り上がり、この橋が完成いたしました。製作に当たっては陶芸家の前田和氏に多大な協力を得た次第です。そしてこの橋をシンボルとし、源流の轟水源より河口の有明海まで、清流が流れる事を祈念いたします。 平成7年12月吉日(現地案内板より)
リフレッシュ船場橋
リフレッシュ船場橋
船場橋界隈
船場橋界隈