蓬莱山 永国寺
別名幽霊寺とも呼ばれる、幽霊の掛軸で有名なお寺です。
所在地:熊本県人吉市土手町5
開山:實底超真和尚
開基:相良前続
本尊は釈迦如来で、曹洞宗蓬莱山永国寺という。第9代相良前続公が開基、一徑永就和尚が開山し、寺院の創立は応永15年(1408年)とも応永17年(1410年)ともいい、第2代住職實底和尚の時である。
明治10年西南の役の際、約1ヶ月程西郷軍の本営となったところでもある。
寺宝として有名な幽霊の絵がある。
人吉市教育委員会(現地案内板より)
大本山総持寺御直末
肥後三十三観音第九番札所
曹洞宗 蓬莱山 永国寺
永国寺由来
当寺は、蓬莱山永国寺と称し、曹洞宗の寺院で特に大本山総持寺(横浜市鶴見区)の御直末として球磨人吉曹洞宗十六ヶ寺の本寺である。寺の創立は、近江15年(1408年)で、相良九代前続公の開基により、実底超真和尚が開山した。依頼、現在の住職で40代になる。
本尊は、釈迦牟尼仏で脇侍に文殊、普賢両菩薩を安置する。鎌倉末~室町初期の作と推定され、像内に延宝元年(1673年)より同3年まで、京都大仏師法橋康祐に依って補修された旨記してある。尚、昭和52年(1976年)に現住職の晋山にあたり、約300年振りに再補修した。又、裏の蓬莱山頂には、鎮守稲荷富勝大明神(咤枳尼真天)を祀っている。この社殿よりの眺めは、人吉市街を一望に収める絶好の眺望である。本堂の外左側に、秋葉大権現を祀っている。秋葉三尺坊は、鎮防火獨の権現である。(永国寺パンフレットより)
仁王像阿形
仁王像吽形
仁王像阿形
仁王像吽形
西郷本陣跡
明治10年、田原坂で敗れた西郷隆盛は八代より当地に逃れ、古くより要害の地である人吉に拠って官軍を防ごうとした。当時既に繊月城(人吉城)は取り壊されていたので、当永国寺に本営を設け、桐野利秋ら参謀諸将が日夜、策を練った。
4月27日に人吉へ来てより33日間官軍を防いだが、遂に、5月29日西郷隆盛は加久藤峠を越え小林へと逃れた。その時に、当寺も尽く灰燼に帰した。寺宝等もあらかた燃えてしまったが、その時に焼け残った一つが当寺の幽霊の掛軸である。この碑は西郷本営跡を記念して海軍大将山本善輔が揮毫したものである。(現地案内板より)
西南の役薩軍本陣跡
明治10年2月21日、西郷隆盛は、熊本に向かう途中、諸将と共に、人吉に一泊、球磨川を下って、八代に向ったが、熊本田原坂に敗れ、4月27日、再び人吉に至り、ここ永国寺を本陣とした。西郷は、一切の作戦を村田、桐野等、諸将にまかせ、時折、このあたりを散策し、時には、うさぎを狩り、或いは球磨川に漁したという。かくて官軍が、人吉に迫るに及び、5月29にT、33日間とどまった本陣を去り、狙撃隊に守られ大畑、加久藤峠を越え、小林に向かった。又、八代南郊の戦いで傷ついた、人吉藩士、別府晋介等は、ここで治療をうけており、臨時病院ともなった。(現地案内板より)
永国寺五重石塔
永国寺は応永15年(1408年)に創建された曹洞宗寺院である。境内には複数の層塔が所在するが、この五重石塔は「嘉禄3年(1227年)4月24日大檀那藤原□重」の銘文があり、球磨地方最古の在銘重層石塔である。現在は四重で相輪と屋根も他のもので補充してある。銘文中の□は不明文字だが、相良家初代長頼の弟宗頼の子の頼重に推定されている。
平成16年3月 人吉市教育委員会文化課(現地案内板より)
本堂に幽霊掛軸があります。(写真撮影不可)
永国寺開山実底超真和尚が描いたと伝えられています。