阿蘇山 西巌殿寺奥之院
西巌殿寺奥之院は阿蘇山の火口近くに鎮座し、代々火口の静謐を祈り、1300年の歴史があるお寺です。古くから阿蘇山修験道の拠点として機能し、九州の天台宗の中で最高位の寺格を持つ寺院のひとつです。
所在地:熊本県阿蘇市黒川
開基:神亀3年(726年) 最栄読師
奈良時代当時、阿蘇信仰の中心は「阿蘇のお池」と呼ばれる噴火口の湯溜まりでした。日本では、山は死者の世界であり同時に豊かな実りを生む水の源として信仰の対象とされていました。その計り知れぬ神秘を人々は畏れ崇拝していましたし、その一方では、山へ入り、修行を積み、神霊の意志を伝えようとする山岳修行者もいました。
火を噴く山・阿蘇も当時の朝廷から関心を寄せられていて、神亀3年に聖武天皇の願いにより渡来した高僧、最栄読師によって西巌殿寺は開かれました。
五縁結び
祈願したい色の五縁紐を結びつけることにより、仏様に直接願い事をお伝えすることができるのが「五縁結び」です。「五縁結び」の五色の紐は、本堂内の十一面観音に繋がっており、これに触れることで仏様と御手つぎをすることができます。古くより当院で行われていた御手つぎ紐を復興致しました。願いをこめて五縁紐をお結び頂き、仏様に願いをお届けください。
≪縁結び由緒≫
阿蘇山は古来より縁結びの山として信仰を集めてきました。昔から、若い男女が春と秋の彼岸に阿蘇山の火口へ詣でる「オンダケサンマイリ」という行事が行われ、夫婦の契りを交わしていたと言われています。良縁を願われる方、今のご縁を大事になさりたい方は、是非「五縁結び」で五つのご縁を御祈願下さい。
≪五縁紐の結び方≫
五色の五縁紐の中から、ご自分の祈願なさりたい内容の色をお取りください。本堂より伸びている五縁紐のそれぞれの色の場所に、願いをこめてお結びいただくと、五色の紐を通じて仏様に願いが委ねられます。「五縁結び」のあとは、本堂をお参りください。(現地案内板より)
五縁紐の色
【赤】良縁成就:良縁成就を祈願します。恋愛・結婚はもちろん、仕事や友人など、赤い糸が大切なご縁を結びます。
【紫】身体健全:身体健全・病気平癒を祈願します。ご本人がご祈願できない場合、ご友人やご家族がご祈願いただいてもご利益は変わりません。
【緑】学業成就:学業が上達するよう祈願します。学業成就・試験合格祈願には緑色をお納めください。
【黄】金運向上:仏様に財運を願うことで豊かな金運をもたらします。金運祈願・商売繁盛祈願には黄色をお納めください。
【白】厄除祈願:災厄を除け、心願成就を願います。叶えたい心願をお持ちの方は、白色をお納めください。
授与所が無人の場合には、阿蘇山ロープウェー売店内七福神にて五縁紐を授与しております。(現地案内板より)
阿蘇西巌殿寺奥の院 御由緒
今を去る奈良時代の神亀3年(726年)、聖武天皇の願いにより渡来した高僧、最栄読師によって開かれた。西巌殿寺の名前は、阿蘇の火口の西の巌殿(洞窟)に仏様を安置して寺を開いたことに由来する。それより修行僧が集い、36の寺院、52の庵室が創建された。その名声は遠く中国の歴史書に「鎮国山寿安殿」として記述があるほどである。歴代の皇室、武家の崇敬を集め、鎮護国家の祈祷道場として栄え、平穏な時代が続くが、安土桃山の戦国の世に至り、天正年間(1580年代)薩摩島津勢の兵火にかかり、各坊ことごとく焼失した。慶長5年(1601年)肥後の統治を託された加藤清正公は本堂を修復し、36坊を麓の黒川村に移築し、再興をなされた。細川家入国後もその志を引き継がれ、代々崇敬を維持されたが、明治維新に至り、岳頭坊跡に西巌殿寺一寺を残し、他の庵は還俗するとともに廃寺となった。
明治4年(1871年)山上本堂を麓に移す。なお、現在の山上阿蘇神社の地が山上本堂の跡地である。明治23年(1890年)、古跡復古の運動にわかに起り、融資一同相謀り、御堂を建立し、「阿蘇山西巌殿寺奥の院」として再建されたのである。(現地案内板より)
愛馬鎮魂之碑
この馬頭観世音は、旧陸軍山(野)砲兵第37連隊の将兵が、先の大戦に於いて陣没せる軍馬の霊を慰めえ、併せて祖国永遠の平和を祈念して、昭和54年秋に建立した。
ちなみに連隊は、昭和14年に編成 北支に進駐、更に中、南支を経て、仏印、マレーに至る1500キロに及ぶ大陸打通作戦に参加、兵馬一体となり戦史に輝く武勲を樹立した。
その間、戦陣に斃れ、又 敗戦と共に連合軍の命に依り、1445頭、悉く大陸の土と化した愛馬に対する無念の想いと限りない哀切の情とが凝集して、ここ蘇岳の霊域に久遠の平和を祈る佛の姿に昇化したものである。 合掌
尚、観世音の台座に玄室を設け、諸戦友が持帰った受馬の鬣と馬名簿を納めてあります。
山(野)砲兵第37連隊戦友会 (現地碑文より)
足手荒神堂
約400年前、肥後国衆一揆で佐々成政との合戦に敗れた御船城主の甲斐宗立は落ち延びて村人にかくまわれた。しかし、手足に重傷を負っていた。看病の甲斐なく「我が死後は、手足の病苦の守り神とならん」と言い残し亡くなってしまった。その後、村人は宗立を足手荒神として祀った。
足手荒神は手足だけでなく、体の何処にでも御利益があるとされる。足手荒神の前の黒い鏡石に触り、自分の病気や怪我の場所を触れると治るといわれている。(現地案内板より)