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矢村神社

阿蘇神社の参道の先、門前町に鎮座しています。

水基巡り1

矢村神社

所在地:熊本県阿蘇市一の宮
御祭神:比咩神・比咩御子神、国竜神
阿蘇大明神が宮居を決めるため、矢を放ち、当たった所が矢村神社となったそうです。

水基巡り2

矢村社

矢村社を中心として、このあたり一帯は健磐龍命のお館の跡であると伝えられている。
健磐龍命は、阿蘇開拓のためには、宮居を定めねばならぬと、ご愛用の弓に託してその落ちた処を宮居と定めようと思われた。そこで命は坂梨の「矢の島」から天に向かって、キリキリ引き絞って一矢ゆりあげられた。
その矢はヒューっと天に舞い上がったが、それが落ちてきたところが、今の矢村社の地だったという。そこでこの一帯をお館と定められた。いまの阿蘇神社なども矢村のうちだったといわれているから相当広い地域だったようである。 一の宮町(現地案内板より)

水基巡り3

矢村社と矢島

健磐龍命は、阿蘇谷の水を流し出し、豊かな田畑をお開きになりました。この後、ご自分の屋形を決めるため手野の高みから空高く矢を放ったのです。矢は、南の方へ飛んでゆき、屋の落ちた所を宮居と定め、命の本拠地となったのです。屋形のまわりには、家々が集まって建ちました。そこが矢村です。ここを中心に村や町ができていきました。
命の放たれた矢がまつってあるといわれる矢村社の隣の今村は、今すぐ村ができたというので付けられた名前だといいます。
命は、二番目のお子誕生の時にも矢を射られ、坂梨の矢島に矢が落ちました。その南側の平地の阿蘇津媛の産所を設けられ、ここを産の平といいます。産さんよと呼ばれる産土神社には、お乳がたくさん出ますようにと、お祈りする人達が今でも後を絶たないといいます。
今では、馬場部落の人々が社を守っておられ、神石、高城、浄土寺、木喰仏、大山寺跡などと神話・伝説・歴史に関わる豊後街道歴史の道に沿って、昔を今に語り伝えているのです。(現地案内板より)

水基巡り4

木こづみ

昔の人が薪を乾燥させるために重ねて保管した「木こづみ」は、素朴な風情をかもしだしている。(現地案内板より)

水基巡り5

すずめのお宿

水基巡り6

五葉松

推定樹齢350年~400年の五葉松

水基巡り7

花蘇芳

水基巡り8

黄色の元気いっぱいの花

水基巡り9

空気弁

水基巡り10

宮地町道路元標

この道路元標は大正13年(1924年)に熊本県が設置。道路の起点、終点、又は通過地点を明示する標識として全国の市町村に一ヶ所、市町村主要な道路の交差点に設置、里程調査の基準となり、交通、運輸、郵政の発展整備に貢献した。 町二区(現地案内板より)

水基巡り11

佐伯清次郎・理一郎誕生地の石碑

≪白衣の天使の生みの親の佐伯理一郎の生誕の地≫
佐伯理一郎は、文久2年(1862年)阿蘇郡宮地村のこの地で生まれました。
明治6年(1873年)に明竣堂(現宮地小学校)を卒業、熊本医学校に学び、医師として欧米に留学、米国では当時世界的医学者ウイリアム・オスラーに教えを受けた唯一の日本人医師でもあり、又英国では博愛の人ナイチンゲールの教義に感銘し、日本にも看護婦の必要性を痛感し、帰国後京都に佐伯産婦人科医院を開業、また同志社の新島蓑と共に、同志社内に看護婦産婆学校を創設し、看護婦・産婆の育成に努め、医療の進展、看護師・助産師の育成興起に偉大な足跡を残されました。人類の幸福を願い博愛の理想を普及実践された理一郎は、昭和28年(1953年)91歳の天寿を全うされました。
「生まれいでしところと聞けばなつかしき 己がたらちねと逢う心地して」理一郎
町二区(現地案内板より)

水基巡り12

佐伯清次郎・理一郎誕生地

山部商店の店先の左角にあります。

水基巡り13

えびす像


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