肥後一の宮 阿蘇神社
平成28年熊本地震にて、阿蘇神社の楼門と拝殿が倒壊し、三つの神殿も大きな被害を受けました。お見舞い申し上げますとともに、復旧をお祈り申し上げます。
所在地:熊本県阿蘇市一の宮町宮地3083-1
御祭神(併せて十三座のうち延喜式所載三座)
一の宮:健磐龍命(たけいわたつのみこと)
二の宮:阿蘇都媛命(あそつひめのみこと)
十一の宮:国造速瓶玉命(くにのみやつこはやみがたまのみこと)
阿蘇神社拝殿
現在の建物は天文年間から仮殿であったものを江戸末期藩主細川氏により再建された。嘉永年間には現在の建物はほとんど再建されたが、拝殿は昭和23年に改築され、回廊は昭和50年に再建された。
社殿は総ケヤキの白木造り独特の阿蘇式と呼ばれる様式で他には例がない。
また楼門は神社には珍しい二層式の屋根を持ち、細部には彫刻がほどこされ、社殿楼門とともに壮大で美しい建築。
阿蘇神社を代々司る阿蘇大宮司家は、初代惟人命から数え、現在九十一代目にあたる。中世以降は肥後の半分を領有し、武家として南北朝、戦国時代を通じて活躍した。豊臣秀吉の天下統一の際、所領の大部分を没収され、以後、大宮司職に専従することになった。日本では皇室に次ぐ第二家柄である。(阿蘇神社パンフレットより)
阿蘇神社の歴史
孝霊天皇九年六月、健磐龍命の皇子、速瓶玉命の創建と伝えられ、その後、惟人命が阿蘇初代大宮司となり、延喜式では名神大社に列せられ、のち肥後国一の宮と称せられた。
明治以降、社格の制が定められるとしだいに昇格し大正三年に官幣大社となった。創建当時、社殿は三十三式年で改築されるのを例として十二の神の神殿を持ち、社域も八丁四方の広さがあったとされるが、後に五神殿になり現在は三神殿で、社域は約一万坪である。
阿蘇神社御由緒
神社の創立、社殿に孝霊天皇九年御子 速瓶玉命 阿蘇宮を創建すと傳ふ(280年)
景行天皇十八年 惟人命 初代大宮司として祭祀を司る、爾来連綿として九十代現宮司に至る。(現地案内板より)
御神徳
国土開拓の功業を第一とし殖産、農工、商の守護神、又肥後国の一宮 総鎮守の大神として広く氏子崇敬者の生業、家庭の安全を守護さる(現地案内板より)
御社殿
一の神殿(正面に向かって左) 天保11年建立
二の神殿(正面に向かって右) 天保12年建立
別殿(真正面) 天保13年建立
楼門(二層楼山門式) 嘉永2年建立
拝殿、祝詞殿、翼廊 昭和23年建立
(現地案内板より)
年間の祭事
御田植神幸式祭 通称おんだ祭 7/28
卯の祭 田作祭 3月中卯の日より卯の日の間
火振神事(御前迎へ) 田作祭の中申の日の神事 参道は火の海と化す
祭りあげ(田作神事) 田作祭、亥の日の神事
田實神事(放生會) 9/25、流鏑馬あり
節分祭 2月節分当日、古式による疫神鎮めの神事あり
(現地案内板より)
阿蘇神社の狛犬阿形
阿蘇神社の狛犬吽形
狛犬阿形
狛犬吽形
有栖川宮熾仁親王ご染筆の額
「阿蘇神社」の大きな額は、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)のご染筆(せんぴつ)で、西南戦争終結後の明治十年十月に、阿蘇神社にご参拝されたものを記念して賜ったものです。以前は楼門に掲げられていました。
有栖川宮熾仁親王(天保六年(1835年)~明治二十八年(1895年)は、仁孝天皇の皇子として生まれました。幕末は尊皇攘夷の側に立ち、元治元年(1864年)の禁門の変後は謹慎を命じられていましたが、王政復古によって総裁職に就任し、戌辰戦争では東征軍大都督として活躍しました。明治十年の西南戦争では征討総督、のちに参謀本部長、参謀総長など、軍の要職を歴任しています。かたや政治面では国会開設以前の立法上の諮問機関である元老院の議長を、神紙面では伊勢の神宮祭主を務めるなど、近代国家の形成期に多方面において大きな功績を残しました。(現地説明板より)
一の神殿
総ケヤキ造 天保11年建
主祭神:健磐龍命
他男神四神を祭る
二の神殿
総ケヤキ造り 天保12年建
阿蘇都比咩命
他妃神四神を祭る
昭和天皇お手植の松
生きている神話「鬼八の首」
弓が好きで往生岳に腰を掛け、的石に向かって弓を引くのが楽しみの阿蘇大明神、お供えして来ていた鬼八もフウと息をついた。九十九本目の矢を拾って来るとさすがの快速怪力の鬼八法師も疲れ果てた。そして百本目…。嫌気がさしていた鬼八が矢を足先で蹴返したから大事になった。「無礼者めが」と命はカンカンに立腹。捕らえようとなさるので鬼八はすっとんで逃げ出した。根子岳のオクドを蹴破り、南郷谷の外輪にぶち当たったり、矢部を抜け宮崎の五ヶ瀬川まで追いつ追われつの韋駄天競争。ついには命が岩と崩して投げられると鬼八は大木を引き抜いて投げ、それをまたお互いに投げ返したしりして凄まじい攻防が続いた。
しかしさしもの鬼八も力尽きて捕らえられ、命に首をはねられた。 切られた鬼八はの首は宙に舞い上がり、天の一角から鬼八のの声が響いた。「霜を降らして稲ができないようにしてやるぞ!」それからは、毎年六月になっても霜が降り、農民は米が穫れずに飢えるばかりだった。
命はこれはいかぬと天に向かって鬼は知に呼びかけられた。「鬼八よ、社を建ててお前の霊を祀ってやろう。霜を降らさないでくれ」そうして霜宮を建て、鬼八の首の傷を暖めるため六十日間の火焚神事が行なわれるようになった。それは今も続いている。(阿蘇神社パンフレットより)
火振神事
阿蘇神社は、阿蘇開拓の祖神と伝えられる健磐龍命をはじめ十二神を祀る由緒ある神社です。古くから農業新としてあつく尊崇され、「火振り神事」をはじめ、農耕と深く結びつきのある古式豊かな祭礼とともに古代を今に伝える神事の数々が今に伝えられています。(現地案内板より)
宇奈利(御田植神幸式)
この鳥居は木製の鳥居です。七月二十八日には、おんだ祭りが行なわれました。おんだ祭りは、「御田植祭」「おんだ」と呼ばれ、阿蘇大明神が阿蘇開拓と農耕の道をおひろめになった御徳をたたえ、年々の豊作を祈るものです。田んぼの畦道を全身白装束の人々が木の箱の様なものをを載せて、行列を作って歩きます。
この頭に載せている箱のようなものは、唐櫃(からびつ)と呼ばれるもので、被せ蓋がついていて、この中には神様へ供える御飯が入っているそうです。
八月六日には、「眠り流し」という行事が行なわれます。眠り流しとは、踏歌の節会で始まったおんだ歌の歌い初めです。(現地案内板より)