通潤橋史料館
館内には、仕法書や実物の石管・木管の紹介をはじめ、通潤橋の仕組みが分かる可動模型や架橋工程を紹介したジオラマや再現映像の上映などがあります。
通潤橋資料館
所在地:熊本県上益城郡山都市下市182-2
開館時間:10:00~16:00
休館日:年末年始・資料整理日
布田保助や石工たちが、架橋に賭けた夢を知ることができる。館内には、仕法書や実物の石管・木管の紹介をはじめ、通潤橋の仕組みが分かる可動模型や架橋工程を紹介したジオラマや再現映像の上映などがあります。中でも200インチの大画面で見る通潤橋の放水のシーンは大迫力です。
矢部町民族資料館
矢部町には江戸末期に当地方独特の平行三棟造(三ッ家造)のかやぶきの家屋が造られていた。即ち台所棟、表棟、座敷棟である。これは強い谷風を防ぐためと、当時の家屋を建てる上での厳しい制限等があったと思われる。この家屋は旧矢部町大字長田、田中賢次氏所有のものを矢部町が当地に移転して原型に近く復元したものである。昭和53年9月1日(現地案内板より)
平行三棟づくり民家
かやぶき屋根が平行に三棟続いている。宝暦年間の建築であり建築後200年以上経過していると推定される。台所、表間、座敷間からなっており、棟が接する部分二ヶ所に竹樋が設けてあり建坪は148平方メートルである様式は強い谷風をさける工夫であり、地方独特のものとして農民生活や建築史上重要なものである。(現地案内板より)
通潤橋のミニチュア
石橋組立の模型
石橋をつくるのに、一番大切なのはこの輪石の組立です。それは輪石(アーチ)の上に多くの石を積み上げるので、その重さがこの輪石にかかるからです。
この模型は、直径1.5m、幅80cmで、敷石2個、輪石15個(円周率から算出された台形のもの)で組み合わされています。(現地案内板より)
ジオラマ
通潤橋が描かれた大皿
通潤橋を見守る布田保之助像
布田保之助像
通潤橋の建設者・布田保之助は、江戸時代末期の享和元年(1801年)11月26日、浜町にある矢部手永惣庄屋の屋敷で生まれた。布田家は、寛政元年(1789年)祖父、桂右衛門が矢部の惣庄屋に転勤以来、代々矢部惣庄屋を勤めた家柄であった。父、布田市平次は17歳で惣庄屋代役となり、保之助が生まれる頃は矢部郷の地図を作成することに熱中していた。31歳で惣庄屋となった市平次は、代役のころ作成した地図をもとに矢部郷の開発と民生安定のため日夜尽力していたが、36歳でこの世を去った。保之助が8歳のときであった。
文化13年(1816年)保之助は元服して惟と名乗り、叔父、太郎右衛門に伴われて御船町にある上益城郡代へあいさつに出た。その岐路、太郎右衛門は保之助に父の死の真相について始めて話した。父、市平次は矢部郷開発のために公役の出夫免除を願い出て、郡代からその許可をもらったが、郡内の惣庄屋の反感をかい、そのため我身を犠牲にしたのであった。この話を聞き終わった保之助に大きな感動が襲った。落ちる涙を手の甲で拭きながら、父の石を継ぎ矢部郷の開発を進めることを心に固く誓ったのであった。
文政5年(1822年)21歳となった保之助は、叔父太郎右衛門の下で惣庄屋代役として勤務することになった。次いで、保之助は下田家から益子を妻に迎え、文政7年(1824年)長男弥門が生まれた。文政8年(1825年)叔父太郎右衛門は、鯰手永の惣庄屋に転勤し、三村章太郎が矢部惣庄屋となった。その後文政12年(1829年)妻方の縁者、下田弥七郎が惣庄屋となった。それから4年後、天保4年(1833年)いよいよ保之助が矢部惣庄屋となった。時に32歳であった。それから、文久2年(1862年)61歳で隠居するまで矢部郷の開発に心血を注いだのであった。
「布田保之助 事業年代表」をみると、惣庄屋在任中の約30年間に実施した主な事業は、道路新設:110km、道路改善:95km、目艦橋架橋:14ヶ所、用水溜池建設:7ヶ所、用水路建設:200km、石櫃:35カ所などが記録されているが、このような土木・利水事業にとどまらず、植林、茶、はぜ、養蚕の振興など常に民力の涵養に務め、矢部76ヶ村、保之助の恩恵を受けない村はなかったといわれている。
この中で特筆すべきことは、水不足で悩む白糸台地の住民を救った石造単アーチ水路橋「通潤橋」の架橋である。矢部手永惣庄屋布田保之助の名は、この通潤橋とともに永世不滅となったのである。熊本県(現地案内板より)
今日も通潤橋を見守る布田保之助さんでした。
八朔祭造り物展示
矢部町八朔祭は、1758年より240余念続いている伝統ある盛大な祭で、毎年9月の第一土曜日、日曜日に行われます。
山野にあるものを材料に町内会(連合組)の人々が技術を競いながら造り上げたもので、その年の世相風刺や願望を上品な洒落を交えて表現しています。
通潤橋の前に八朔祭の造り物が展示されていました。