熊本城・諸櫓
高石垣の上には平屋の櫓が築かれ、各々の櫓にはその長さや管理した人物の名が付けられています。
左から四間櫓、十四間櫓、七間櫓、田子櫓
高い石垣の上に黒い下見板、その上の白い漆喰壁、灰色の屋根瓦のコントラストが美しいです。
東竹の丸の国指定重要文化財の櫓
明和6年(1769年)の絵図を見ると、櫓に向かって左から源之進櫓、四間櫓、十四間櫓、七間櫓、田子櫓と並び、さらに右手に元硫黄御櫓がありました。(現地案内板より)
手前から源之進櫓、四間櫓
熊本城の平櫓・源之進櫓・四間櫓・十四間櫓・七間櫓・田子櫓
熊本城が築城された慶長年間(1596年~1614年)櫓49・櫓門18・城門29がそびえていたが、明治10年(1877年)西南戦争勃発直前の火災により大半を焼失した。現在、熊本城には焼失をまぬがれた13の建造物があり国の重要文化財に指定されている。櫓は武器、武具などの倉として使用され、戦時には兵の駐屯所にも当てられた。熊本市(現地案内板より)
源之進櫓
源之進櫓(げんのしんやぐら) 国指定重要文化財
熊本城東竹之丸の一角にあります。この櫓を管理していた源之進という方の名前に由来し、源之進櫓と呼ばれているそうです。普段は武器や武具などの倉庫として利用されていました。外壁には、狭間と石落としが備わっています。戦時の際は、兵の駐屯所になっていたそうです。
源之進櫓
四間櫓
四間櫓
七間櫓
七間櫓
田子櫓
田子櫓須戸口門から入ると、平御櫓、田子櫓、七間櫓、十四間櫓、四間櫓、源之進櫓がみえます。 武者返しの石垣、ほれぼれするような美しさです。機能美でしょうか、敵の侵入を防ぐと共に、美しさも兼ね備えています。
田子櫓
田子櫓平御櫓
長塀の東端にある平御櫓
平御櫓
平御櫓は、長塀の防御線を一段高い位置から援護する役割や、須戸口門から侵入した敵を、東竹の丸との連携で挟み撃ちにするための櫓であった。櫓に登る石段は、敵が須戸口門を突破したときに、この石段を崩して侵入を防ぎ、敵中でも孤立した拠点として最後まで戦うために作られた櫓であったと考えられる。(現地案内板より)
平御櫓
平御櫓
平櫓
不開門の近くにあります。不開門から侵入しようとする敵への備えとして寛永年間(1624年~1644年)に建てられた櫓です。現在の平櫓は、1869年に再建されたものです。
熊本城の東竹の丸ゾーンには、西南戦争の戦禍を免れた諸櫓が現存しています。高い石垣の上には、平屋の櫓が築かれ、各々には、その櫓を管理した人物の名前や、○間櫓というに○間と大きさの名前が付いています。
これらの櫓は単なる武器庫ではなく、要所毎に狭間と呼ばれる、槍を出して突いたり、矢や弾丸を発射したりする小型の窓が設けられています。また、石垣を登ってきた敵に石を投げ落とすための石落としなども設けられています。
因みに一間は元来建物の柱と柱の間、つまり柱間のことですので、時と場合によって長さが違います。熊本城の一間は、6尺5寸で約197cmで換算しているそうです。蛇足ですが、江戸間(東日本中心)の一間は6尺、京間(西日本中心)は6尺5寸です。