熊本城・本丸御殿
本丸御殿は西南戦争(明治10年・1877年)直前に天守閣とともに焼失しました。現在の本丸御殿は、熊本城復元整備計画により平成20年春に復元したものです。
熊本城 本丸御殿大広間
延床面積:約2,951平方メートル
東西78m、南北31m、高さ14.6m
構造:地下1階地上3階建て
建築様式:書院造り
総事業費:約54億円
熊本城本丸御殿は、加藤清正公によって創建され、行政の場、歴代肥後藩主の対面所(会見の場)として使われてきましたが、明治10年(1877年)に焼失しました。
現在の本丸御殿は、江戸中期の古文書や明治期の古写真、緻密な発掘調査により平成20年春に復元落成し、平成20年4月20日午後1時より一般公開されました。
玄関の再現
この地下通路は人や緊急車両が通行できるように、また、段差を解消するため当時の地盤面に盛土を行い、スロープ状に整備しています。「玄関の再現」の廊下・階段は本来より70cmほど高い位置に設けています。
本丸玄関は、闇り通路内の四辻付近に設けられていました。この板床張りの廊下と階段は玄関の一部を再現したものです。階段を上ると地下と1階の間に廊下と14畳ほどの広さの玄関があり、さらに階段を上ると1階大広間の式台之間と鶴之間に通じていました。(現地案内板より)
闇り通路
本丸御殿大広間へのアプローチは、本丸御殿大広間の下に設けられた闇り御門から続く闇り通路です。闇り通路は日本で他に例をみない地下通路です。石垣の上に直接配置された巨大なアカマツの梁、ケヤキの柱を備えています。
本丸御殿の障壁画・天井画・杉戸絵
今回、「昭君之間」「若松之間」にて復元した障壁画・天井画の他にも、本丸御殿には多くの障壁画・杉戸絵が描かれていたようです。
建築復元のための貴重な資料となっている「御天守密書」には、本丸御殿内の障壁画の画題と形式、絵師の名前などが記されており、これにより、慶長期(狩野言信・狩野外記・京絵師)と寛永期(矢野三郎兵衛)の障壁画作製が判明しています。
御小姓部屋内 御張附:紫苑 萩、杉戸絵:片面・海棠、片面・から紙
鶴之間 御張附:鶴図、杉戸絵:表・山鳥、裏・山吹
雪之間 御張附:雪の図、杉戸絵:表・矢屏風、裏・唐絵
團扇之間 御張附:扇面の図、杉戸絵:表・岩ニ躑躅、裏・扇面之内唐絵
蘇鉄之間 御張附:蘇鉄の図、杉戸絵:表・松ニ猿候、裏・鹿
猿牽之間 御張附:山水(猿牽の図)、杉戸絵:表・猿候、裏・陶淵明
桐之間 御張附:桐の図、杉戸絵:表・牡丹 獅子、裏・雉子
櫻之間 御張附:桜の図、杉戸絵:表・霊猫 木芙蓉、裏・竹ニ虎
梅之間 御張附:梅ニ月図、杉戸絵:表・芦 鷺、裏・芦 鶴
麒麟之間 杉戸絵:表・麒麟、裏・老松
若松之間 御張附:若松の図、杉戸絵:表・鶴、裏・紫陽花
昭君之間 御張附:王昭君の図、杉戸絵:表・萩、裏・紫陽花 尾長鳥
障壁画は、平安時代に貴族の寝殿造りの襖障子や衝立障子に天和絵を描いたことが始まりです。
天下人の御用絵師であった狩野永徳を中心とする狩野派などによって「桃山文化」の粋が極められ、熊本城もその影響を受けて描かれたと思われます。
また、天井画は建物の天井に装飾を目的として描かれた絵画のことを指します。(現地案内板より)