熊本城天守閣展示物
熊本城の天守閣の内部は、熊本博物館分館になっていて、加藤家時代、細川家時代、西南戦争関連の資料を展示しています。
熊本城大天守と小天守は、昭和35年(1960年)に、鉄筋コンクリート作りで外観復元されました。熊本城の天守閣の内部は、熊本博物館分館になっています。1階は加藤家時代、2階は細川家時代、3階は西南戦争関連の資料を展示しています。
最上階は展望所になっていて、熊本市街地はもとより、阿蘇連山の山並みを観ることもできます。春に伺った当時は、楠の香りがする爽やかな風が吹き抜けていました。
天守閣は、権力の象徴でもあり、物見のための塔でもあります。熊本城の大天守・小天守は、加藤清正によって慶長期(1596年~1615年)に築かれました。大天守は五重六階穴蔵(地階1階)、小天守は三重三階穴蔵(地下1階)です。大天守・小天守共に明治10年(1877年)に西南戦争で焼失しましたが、昭和35年(1960年)藤岡通夫の設計により、鉄筋コンクリート造りで復元されました。小天守は、穴蔵(地下)から1階までが一部吹き抜けになっていて、太いコンクリートの柱が見えます。
谷村計介銅像
熊本城の天守閣に入るとすぐ、谷村計介の銅像があります。谷村計介の銅像は、戦前は現在の行幸橋の傍にありました。戦中に金属供出の為撤去されてしまいました。この銅像は、平成10年に熊本ライオンズクラブが熊本市に寄贈したものです。
谷村計介は、宮崎県出身の陸軍伍長です。西南戦争で籠城中に鎮台司令官の谷千城(たにたてき)の命を受け、城を抜け出し、何度も敵に捕まりながらも逃げ出して、官軍本隊に籠城郡の窮状を伝えました。その後、自ら進んで田原坂戦に加わりましたが、戦士しました。
暗門燈籠
此の燈籠は天守閣前、千畳敷大広間の下をくぐりぬける通路(暗門)に吊るされていた物のひとつで、昼夜百匁(400g)のローソクを点していたと云われています。(現地説明板より)
鯱鉾
この鯱は、天守閣が昭和35年(1960年)に再建された際に大小天守屋根に設置されていたものです。平成19年に落雷や台風及び経年による亀裂・鰭の破損などが確認されたため、安全面を考慮し、新たに鯱鉾大小2対(4本)を平成20年2月に取り替えました。この度、比較的破損が少ない大小2本を展示しております。(現地説明板より)
大天守閣の鯱鉾
左側が大天守閣の鯱です。
高さ:155cm 巾:47cm 重さ:約100kg
製作者:鬼師 鈴木吉治・啓之(奈良市)
小天守閣の鯱鉾
右側が小天守閣の鯱鉾です。
高さ:130cm 巾:40cm 重さ:約80kg
製作者:鬼師 小林平一・平二・平三(親子)(姫路市)
鯱(しゃち)は、頭が獣で体が魚という想像上の動物です。火災除けの力があるという言い伝えからお城の棟飾りに使われるようになりました。日本で最初に鯱鉾が使われたのは、安土城の天守といわれています。
鯱鉾は雄・雌一対で使われますが、大きさ、形が微妙に異なるようです。大天守閣、小天守閣、宇土櫓の屋根の上にも鯱鉾が飾られています。
慶長4年の瓦
慶長4年(1599年)に作られた熊本城天守閣の瓦です。瓦には、「慶長四年八月吉日」と銘が入っています。
九曜紋が入った瓦
清正公の肖像画
虎に乗っています。
蛇の目紋長烏帽子形兜
有名な清正公の長烏帽子兜です。清正公自筆の「南無妙法蓮華経」と書かれた数百枚の紙を貼り合わせて長烏帽子を作り、黒漆を塗っているそうです。
清正公の長烏帽子と肖像画
実際に使用されていた清正公の長烏帽子兜です。
加藤清正所用軍扇
文禄・慶長の役で、岸惣兵衛正俊が手柄を立てたその褒美として、加藤清正から拝領したものと伝えられる軍扇です。(現地案内板より)
熊本城天守閣内に展示されています。加藤清正公の肖像画です。清正公の銅像、肖像画、木像など、其々表情や顔立ちが違います。本当はどんな顔だったのでしょう。こちらは少しおじいちゃんぽく描かれています。
清正公肖像画
勇猛果敢な清正公らしい、雄々しい姿です。清正公の身長は6尺3寸(約190cm)あったといわれています。
清正公肖像画
本妙寺所蔵
細川忠利公肖像画
細川家伝来の蒔絵駕籠
牡丹唐草九曜紋散蒔絵挟箱と蒔絵駕籠
波奈之丸
熊本城天守閣の内部に細川家の参勤交代用の御座船だった波奈之丸(なみなしまる)の一部が展示されていました。
国指定文化財「細川家波奈之丸舟屋形」は、細川家の歴代藩主が参勤交代の際、豊後国鶴崎(現大分県大分市)または豊前国小倉(現福岡県北九州市)から大阪(現大阪市)まで、のちには播磨国室津(現兵庫県相生市)まで乗舟した御座船「波奈之丸」の御座所部分です。
明治4年(1871年)に廃船後、この部分だけが繋留地の鶴崎に保存されていました。
波奈之丸は、細川忠興が豊前中津で建造したのが始まりで、天保5年(1834年)に焼失し、斉護が同10年(1839年)に再建しました。
舟屋形は、昭和37年(1962年)に解体修理後、熊本市本丸町の熊本城小天守閣1階に移設され、翌38年3月に完成後展示されました。(現地案内板より)
「波奈之丸」の額は肥後藩主10代斉護の書を福田太華が彫刻したものです。
波奈之丸の天井画
波奈之丸は、細川家の参勤交代用の御座船で、天保10年(1839年)に建造されたものです。豊後国(大分県)鶴崎の港から、播磨国(兵庫県)室の津、または大阪までの瀬戸内海の船旅に用いられていました。
現在展示している船屋形は船体の中央部で、「御茶風呂」、藩主の居間である「御座の間」、「次の間」の計3室と2階があり、室内の襖や格天井の装飾画は矢野派の絵師が描いたものと思われます。金を背景に極彩色の植物を描いた天井画は豪華で美しく格調高いものです。
熊本城の木製模型
熊本城の木製模型は、熊本城の天守閣内に展示されています。
日本三名城の一つに数えられる熊本城は、加藤清正が幾多の実践の経験を生かし、慶長6年(1601年)から七ヶ年の歳月を費やして完成したものと伝えられている。
周囲5.3キロに及ぶ豪層雄大な構えで、百二十余の井戸を掘り、かつては櫓49、櫓門18、城門29を数えた。
明治10年(1877年)の西南戦争で多くの建物を焼失したが、薩軍の猛攻撃に耐え、名城としての真価を発揮した。
熊本城の石垣は、特異な勾配と堅牢さで知られ、「武者返し」の石垣と呼ばれている。
なお現在の天守閣は、昭和35年(1960年)に再建されたものである。[熊本市](現地案内板より)
この木製模型は、詳細まで大変精密に再現されています。
この模型は、昭和35年の大・小天守復元の際に作られたもので、10分の1の大きさです。大天守は一階から順に上へ、鉄砲の間、具足の間、矢の間、弁当の間、貝の間、上段の間で、小天守は一階から順に上へ、松の間、兜佩の間、納戸、上段の間になっています。(現地案内板より)
大天守最上階部分の復元模型
畳や襖絵まで、見事に再現されています。
天守閣から観た宇土櫓
天守閣から観た頬当御門と宇土櫓と西出丸と二の丸広場
天守閣から観た本丸御殿