熊本城・地図石
表面を平らに加工した大小様々な切石が、隙間なく組み上げられた石組です。
飯田丸から地蔵門跡を通り、さらに幅の広い石段を上っていく途中、数寄屋丸の手前にあります。
地図石は、数寄屋丸の手前の石段の脇にあります。
表面を平らに加工した99個の石を隙間なく組み合わされた構図から、古くから地図石と呼ばれてきました。
日本地図を表しているとか、熊本城の縄張りを表すとか、熊本城下の地図とも言われてきました。以前は数寄屋丸へ案内するための待合室だったとも言われています。
色々考えながら、しばらく地図石を眺めてしましたが、私には何を表しているのかはわかりませんでした。
地図石
この箱形の石組みは、古くから地図石と呼ばれてきた。ここの石組みは城の他の部分とは全く異なり、切石の組合せで美しく構成されている。
そのため、その謎を解こうとして先人たちが色々と苦心し、日本地図・熊本城下町図・熊本城平面図を表現したものなど諸説を出したが、旧藩時代の絵図には「御待合口」との付箋が付いたものがあり、今日では数寄屋丸二階御広間への参入口の装飾であったと考えられている。 熊本市(現地案内板より)
99個の石が組み合わされていることから、「城の長寿を願ったおまじない」、あるいは「茶の湯として使われていた数寄屋丸へ向かうための敷石」などの説もあります。
三角形、正方形、長方形、台形など様々な形、大きさの石がびっしりと敷き詰められています。
敷石と言われれば、敷石にも見えるし、お寺の敷石で曼荼羅を表しているところがありますが、その様にもみえます。さてはて、真相は?
首掛石
熊本城の首掛石は、怪力自慢の横手の五郎という若者が、数人がかりで運べなかったこの巨石を、首に掛けて一人で運んできたと伝えられています。
こんな大きな岩の様な石を一人で運ぶとは、すごい怪力だったのでしょうね。
しかし、この五郎は、天草の仏木坂(ぶっきざか)の戦いで清正に殺された木山弾正(きやまだんじょう)の息子でした。熊本城の築城を手伝ったのは、父の仇討ちをするためでした。
そして、ある日清正公を襲った五郎は、家来達に取り押さえられて、古井戸に投げ込まれたそうです。古井戸の上から大きな石を次々と投げ込まれましたが、五郎は片手で石を受け止めて足元に置き、段々上へと上ってきたそうです。
そこで、こんどは砂を投げ込まれ、とうとう生き埋めにされたそうです。なんとも悲しく大変残酷な話です。
首掛石