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霊巌禅寺奥之院 霊巌洞

紹介文

霊巌洞1

霊巌洞(れいがんどう)

所在地:熊本市西区松尾町平山589 雲巌禅寺内
見学時間:8:00~17:00
駐車場:無料・約30台(雲巌禅寺の駐車場)
雲巌禅寺の奥の院にあたります。宮本武蔵が五輪の書を著した場所としても有名です。

霊巌洞2

霊巌洞での武蔵

当時57歳の宮本武蔵を客分待遇で肥後に招いた藩主細川忠利公は、武蔵が熊本に来て1年足らずのうちに急逝します。
武蔵は失意のうちに門戸を閉ざし、書画、彫刻、禅に没頭するなか、心気統一のために金峰山麓の霊巌洞に度々参禅しています。
城下から霊巌洞へ通う武蔵に、この山麓が湛える自然の風景が心を癒すものとなったことでしょう。
武蔵は正保2年(1645年)に『死後も藩主の参勤の列を見守りたい』と言い残し、62歳の生涯を閉じました。(現地案内板より)

霊巌洞12

岩に彫られた霊巌洞

霊巌洞4

霊巌洞5

霊巌洞6

霊巌洞7

岩に彫られた霊巌洞の文字

霊巌洞8

武蔵の座禅石

霊巌洞内にある大きな石です。

霊巌洞9

宮本武蔵がこの石の上で座禅を組んだといわれています。

霊巌洞10

霊巌洞11

霊巌洞14

逆修

この岩壁には、細川家の家老 沢村大学及び戦国時代の文武兼備の武将・鹿子木寂心の逆修も彫られている。
逆修とは、生前に於いて戒名など付けてもらい、一般の葬式などを生前修行厳修するものなり。(現地石碑碑文より)

霊巌洞15

岩戸観音

雲巌禅寺の奥の院にあたる霊巌洞の一番奥の突き当りに、石体四面の観音像が安置されています。木の柵があり、その隙間から拝見することができます。

「岩戸観音」
千数百年の昔より、この霊巖洞に安置されているのは石体四面馬頭観音である。中央の岩壁に「霊巖洞」とあるのは、雲巖寺の開祖、東陵永興(1285年~1365年)の篆刻である。
宮本武蔵が、ここ霊巖洞に参籠し「五輪書」を書き始めたのは寛永20年(1643年)彼が60歳の秋のことであり、 その後「1645年」5月12日門人、寺尾孫丞勝信に「五輪書」を授けた『神佛は尊し、されど神佛を頼まず』。武蔵がその波乱に満ちた生涯を静かにふりかえり、剱の道をまとめあげるには、絶好の場所であったらう。
【1998年 晩秋  大仙哲翁 記】(現地石碑碑文より)

霊巌洞3

霊巌洞13

二天一流の由来

二天一流は世に言われている二刀流ではありません。剣聖宮本武蔵は生涯を行雲流水の求道の旅で終り、30才の前半を諸国の兵法者と戦い、51才に至る約20年は史実的に全く空白で東西に剣客の旅を続け、寛永17年に肥後の細川忠利侯に招かれ細川藩軍事顧問として肥後千葉城に居住し、忠利侯の命をうけ「兵法三十五箇条」を献上しました。
その二年後に兵法三十五箇条を骨子とした五輪書をこの霊巌洞に籠もり執筆し、正保2年3月12日寺尾勝信に伝授、寺尾信行にいは三十五箇条を授与し師範家相続の証としました。
以来に天一流は五輪書で確率し師範家は五流派に分かれ藩外不出として栄え江戸末期には、野田・山尾・山東の三流派のみ継承され、その後明治から昭和にわたり断絶或いは再興し、県外流出の流派もあり、現在では師範家は野田派のみ連綿として熊本に現存しております。
野田派では毎年5月19日の武蔵の命日に霊巌洞で、6月12日の寺尾信行の命日に寺尾信行の墓前で、五方の形、二刀太刀、一刀太刀を奉納し先師の霊を弔らい道場では朝鍛夕練の精神で二天一流の鍛錬を続けております。
野田家 二天会会長 大浦辰男 記(現地石碑碑文より)


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