叢桂園
肥後藩の医学校再春館の師役村井家の別荘で、見朴の子、椿寿(琴山)が作庭したと伝えられています。
所在地:熊本市西区島崎5丁目
釣耕園(ちょうこうえん)の近く(下手)にあります。
藩の医学校再春館の師役村井家の別荘で、見朴の子、椿寿(琴山)が作庭したと伝えられています。
庭には釣耕園の水を引き曲水をつくり、その下手に中国の洞庭湖に模した池を設けています。その北には簡素な茶室があり、西側の小窓を開けば荒尾山がその枠内に入り、一幅の絵となる造りをしていました。往時は、頼山陽などの文人も訪れたそうです。
叢桂園は江戸時代肥後の分か、医学教育に貢献した村井家歴代の別荘跡である。
村井琴山(1733年~1815年)が工をおこし、その子蕉雪(1769年~1814年)の代に完成した。園の入口に「出者不逐入者不拒 山家自然妙境」と刻んだ石がある。
揚子江、洞庭湖を象った池があり遣水が流れている。頼山陽子はじめ多くの文人墨客が訪れた。村井琴山の父見朴(1702年~1760年)は藩主細川重賢に藩立医学校「再春館」設立を建議し、宝暦7年開講した。
「患者を身分貧富で差別せず、治療技術のみでなく学理を学ぶ、師弟関係を尊重する」を教育方針とした。村井琴山は京都の山脇東洋や吉益東洞の教えをうけ、古医方を唱え、医道二千年眼目編・和方一万方などの著書を残し多くの門下生を指導した。その子蕉雪も偉業を嗣ぎ再春館医学監を務めた。
【平成11年4月 日本東洋医学会 熊本県部会】(現地案内板より)
椿寿のときに叢桂園の本格的に作庭され、蕉雪のときに文人の頼山陽が訪れ、百日紅(サルスベリ)の植え替えや庭石の配置作業を終日手伝わされたと伝えられます。
取水口跡の横には椿寿筆の「来者不拒 去者不逐 山家自然妙境」と漢文を刻んだ石碑が横たわっています。「来る者は拒まず、去る者は追わず、山家は自然の妙境」という意味で、この池は中国の洞庭湖(どうていこ)を写したものと伝えられています。
叢桂園から百梅園へと続く竹林
百梅園は、細川藩士で学者・詩人・藩士中第一号の帰農者としても有名な「兼坂止水」が私塾を開いた場所です。兼坂止水が梅を好み、多くの梅の木を植えたことから「百梅園」と名付けられたそうです。早春には、様々な種類の梅の花を楽しむ事が出来ます。
清々しい竹林が続きます。癒されます。