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瘡守稲荷神社

コレット小倉店屋上の神社

所在地:福岡県北九州市小倉北区京町3-1-1

コレット小倉店の12階に鎮座する神社です。

瘡守稲荷神社1

御祭神

倉稲魂大神・猿田彦大神・大宮女神

瘡守稲荷神社11

相殿祭神(宮地嶽神社)

息長足比賣命・勝村大神・勝頼大神

瘡守稲荷神社10

瘡守稲荷神社ご由来

寛永(自1624年 至1644年)の頃、小倉城主小笠原侯に仕える真砂政次郎という武士が、主君に従って江戸に滞在するうちに、花柳街に遊び瘡疾(性病)を患いました。
 当時の医薬では効果少なく、友人の勧めで江戸南方の瘡毒に霊験新といわれる瘡守稲荷神社に詣で、平癒を祈願しました。その時政次郎は、「速やかに癒えしめ給わば、帰郷して祠を建て、厚く敬ひ奉らむ」との誓詞を捧げました。その甲斐あって、幾許もなく病癒え、壮健の身となって帰郷することができました。
 しかし、帰郷した政次郎は、多忙に取り紛れて一年余も誓詞のことを忘れていました。すると、ある梅雨の夜、夢心地のうちに門前に騎馬の音が聞こえ、更に「汝は、江戸にて瘡の癒えたるを忘れたりや」との叱責の声を聞きました。
 政次郎は大いに悔い、急ぎ神恩に報いるために、家人、親族の協力を得て、博労町(現在のこの地)に在った宝典寺別院の大日堂境内に祠を建て、寛永14年(1637年)5月15日鎮座の祭典を挙げました。これがこの神社の起こりです。
 依頼、小倉に疱瘡等の疫病が流行する度に、霊験著しく、城主も深く感激して、小笠原家の定紋(三階菱)つきの幕と提灯並に石燈籠を寄進されたといいます。
 その後、昭和の時代に至って、老朽した祠を改築することになり、信徒総代安倍寛は講社一同と相計り、昭和34年に新しい社殿を建立しました。その折、近傍に在った宮地嶽神社の祠も荒廃していましたので、その祭神を瘡守稲荷の新神殿に遷し、相殿祭神として崇敬を加えることになりました。
 昭和63年12月、この地区を北九州市の表玄関として整備するための再開発事業が起り、施行者の小倉駅前東地区市街地再開発組合と再開発ビルの核店舗株式会社小倉そごうは、神社講社代表と協議を重ねた結果、再開発ビルの屋上に遷座奉り、今後は地域の鎮守としてあがめることになりました。遷座の期日は平成5年10月1日です。
 なお、この神社には軍茶利明王の神像が合祀されていましたので遷座の際、境内に別祠を建て、神社の守護として祀りました。(現地案内板より)

瘡守稲荷神社4

瘡守稲荷神社と宮地嶽大神・勝村大神・勝頼大神が祀られています。

瘡守稲荷神社2

ご祭日

初午祭:2月初午日
鎮座祭:5月15日
夏祭:7月22日
遷座祭:10月1日

瘡守稲荷神社3

瘡守稲荷神社9

手水舎

瘡守稲荷神社7

瘡守稲荷神社8

三階菱

小笠原家の定紋、三階菱

瘡守稲荷神社5

軍茶利明王

(ぐんだりみょうおう)の神像が祀られています。

瘡守稲荷神社6

軍茶利明王は、密教の明王のひとつであり、宝生如来の教令輪身とされる尊格です。様々な障碍を除くとされ、五大明王の一尊としては南方に配されます。五代明王は、大日大聖不動・降三世夜叉明王・軍茶利夜叉明王・大威徳夜叉明王・金剛夜叉明王です。

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