長崎街道起点
所在地:福岡県北九州市小倉北区室町
長崎街道は、江戸時代に整備された脇街道の一つで、豊前国小倉(現在の福岡県北九州市小倉北区)の常盤橋を始点として、肥前国長崎(現在の長崎県長崎市)に至る路線です。小倉から長崎の間の全長57里(約228km)25宿が定着して、江戸を発する五街道に次ぐ主要な道路となりました。
長崎街道起点
長崎街道起点は、木の橋(常盤橋)です。
長崎街道
江戸時代後期に全国を計測した伊能忠敬が、文化9年(1812年)1月から長崎街道を測ったとき、西勢溜(西広場)の高札場の下を起点としました。小倉は古くから交通の要地で、太宰府政庁があったころから官道が開かれ、高浜、長浜を通る防人たちが詠んだ歌も残っています。
しかし、長崎への道が注目されるようになったのは江戸時代になってからです。徳川瀑布は鎖国令を出して外国との門戸を閉ざし、わずかに長崎においてオランダ・中国とのみ貿易が行われました。幕府は慶長8年(1603年)に長崎奉行を設置し、明治元年(1868年)まで続きました。また、寛永18年(1641年)長崎に出島を建設し、オランダ・中国との貿易が固定して、江戸と長崎との往来も頻繁になってきました。
この道は参勤交代などの往来だけでなく、オランダ商館のケンペルやシーボルトなど外国人や、西洋の文化や物資が長崎から江戸へと流れていく幹線道路となりました。道も整備され、慶長16年(1611年)には黒崎、原田間のいわゆる筑前六宿が完成し、小倉から長崎の間の全長57里(約228km)25宿が定着して、江戸を発する五街道に次ぐ主要な道路となりました。
この道は当初は長崎路と呼ばれていました。しかし、江戸時代前期に貝原益軒が記した「筑前国続風土記」の中に「長崎街道」の名が出てくるので、江戸時代の割合早い時期から長崎街道といわれていたようです。
小倉への諸街道が集中する常盤橋周辺の京町・船頭町・宝町・室町には、九州の諸大名が参勤交代で泊まる宿(本陣)や、商人や旅人が泊まる旅籠が多数あり賑わいました。(現地案内板より)
これより西へ 長崎まで 五十七里(二百二十八キロ)
長崎街道 起点 室町
常盤橋~長崎街道~小倉城下
長崎街道と筑前六宿
江戸時代には五街道と脇街道があり、長崎街道は九州で唯一の脇街道でした。57里(約240km)のこの街道には25ヶ所の宿場があり、このうち福岡藩内の黒崎、木屋瀬、飯塚、内野、山家、原田の各宿は筑前六宿とよばれ、大変な賑わいをみせました。
長崎街道は当時鎖国体制の二本で、唯一外国との文化交流や通商の窓口であった長崎から西洋の文化や新しい技術などを日本に伝える文明の道として重要な役割を果たしていました。参勤交代の大名や長崎奉行だけでなく伊能忠敬、シーボルトのほか象や孔雀等の動物もこの長崎街道を通りました。
参勤交代往還路
コレットの前の歩道にあります。
江戸時代、参勤交代で九州諸大名が常盤橋周辺の本陣で休泊した後に、京町を通って文字の大里湊へ向かい、江戸を目指しました。往還がコレット小倉店の店内を抜ける為、東西入口歩道に碑で表示したものです。