九州旅倶楽部

九州旅・九州各地の温泉・四季・歴史・町並・食事処・カフェなどを写真満載で紹介しています

トップ >福岡県 >秋月・甘木 >梅ヶ谷藤太郎横綱の碑

梅ヶ谷藤太郎横綱の碑

梅ヶ谷藤太郎横綱の銅像

所在地:福岡県朝倉市志波梅ヶ谷

梅ヶ谷公園内に第15代横綱 初代 梅ヶ谷藤太郎の銅像や顕彰碑があります。

梅ヶ谷藤太郎1

第十五代横綱 初代 梅ヶ谷藤太郎

建立日:平成13年11月3日
建立者:杷木町梅ヶ谷顕彰会
製作者:彫刻家 塙 和道
碑文書者:顕彰会副会長 田篭 政美
石工:株式会社日野組 日野 義章

梅ヶ谷藤太郎2

梅ヶ谷藤太郎3

第十五代横綱 初代 梅ヶ谷藤太郎

 梅ヶ谷藤太郎は、杷木町志波梅ヶ谷に弘化2年(1845年)3月3日、小江藤右衛門・妻トメの次男として生まれる。幼少のころより怪童として知られ、文久2年(1862年)18歳の時懇望され相撲力士になる決意をし大阪相撲の「湊部屋」に入門する。土俵成績はすばらしく7年後の明治3年には最高位東方大関に昇進した。しかし、己の真価を試さんと上京し江戸相撲の名門「玉垣部屋」に入門する。明治4年幕下序の口に付け出され連勝する。大阪相撲出身ということで冷遇を受けるが忍耐と努力と実力で困難を乗り越え明治12年1月最高位の大関となる。
 明治17年第十五代横綱に推挙され同年3月10日明治天皇の展覧相撲の栄に浴し堂々と横綱土俵入りを果たす。
 土俵成績は歴代横綱中最高位、勝率9割5分1厘を誇り角界に燦然と輝いている。引退後は雷権太夫を襲名し年寄りとなり相撲道の興隆に心血を注ぎ、旧国技館んも建設や30年間に亘って取締役を務めるなどの相撲協会の発展に生涯を捧げる。相撲協会は、彼の偉大なる功績と人徳に対し大雷と尊称し、大相撲中興の祖として敬慕されている。  ここに杷木町制施行50周年記念と顕彰事業推進を祈念し偉大なる英雄の顕彰を永く後世に伝えるため、その勇士を銅像として建立する。
 平成13年11月 (碑文より)

梅ヶ谷藤太郎4

天下の名横綱初代梅ヶ谷藤太郎略歴

第十五代横綱初代藤ヶ谷梅太郎は、弘化2年3月3日志波村梅ケ谷、小江藤右衛門・妻とめの次男として出生した。幼少のときより怪童として知られ、数々の逸話が伝えられている。
18歳のとき懇願されて相撲力士になる決意をし、父の許しを得て、大阪の湊部屋に入門したのが文久3年19歳の春だった。土俵成績はすばらしく、7年後明治3年には東方大関に昇進したが、感ずるところあって同年大関の栄位を捨てて上京し、江戸相撲の名門玉垣額之助の門をたたいて入門。以来異常なほどの忍耐と努力を傘ね明治12年西方大関となる。  同17年第十五代横綱に推挙され明治17年3月10日延寮館において、明治天皇の展覧相撲に出場するという栄光に浴している。当日は横綱として小結剣山を露払いに、関脇大鳴門を太刀持ちにして堂々と土俵入りを果たしている。土俵生活22年藤太郎40歳のときである。  引退後は雷権太夫を襲名して年寄りとなり、相撲道興隆のため心血を注ぎ相撲常設館、すなわち前相撲国技館の建設は彼の手によってなしとげられた。その後30年間に渡って薬院として努力をしている。
 なお、梅ケ谷藤太郎の土俵成績は歴代横綱中最高位を誇っており、勝率9割6分4厘と谷風の9割4分を上回り相撲史上最高と言われている。昭和3年6月15日84際の高齢で亡くなるまで相撲協会で、その功績が大きいことから顧問に推し、元老として処遇し、大雷権太夫と尊称され相撲道中興の祖として今もなお関係者より追慕されている。(現地案内板より)

梅ヶ谷藤太郎5

梅ヶ谷藤太郎6

広告

更新

広告

ページのトップへ戻る