西念寺
法輪山 西念寺
所在地:福岡県朝倉市秋月209
開祖は、小山田正信
西念寺
開祖小山田正信は、秋月種実(たねざね)が毛利元就の下に実を寄せていた頃からの家臣で、永禄2年(1559年)頃、種実に従って九州へ下ってきた。天正15年(1587年)豊臣秀吉は吸収征伐のため下向し種実を降服させると、秋月に3日間滞在した。2日間は種実の居城ともいわれる荒平城に、もう1日は正信宅に入った。正信は熱心な真宗の信者であり、秀吉に随行してきた本願寺の教如から出家を勧められ、自宅を寺として開山したのが西念寺である。
寛永元年(1624年)、初代藩主黒田長興の町割りにより現在地に移された。
本殿裏には、藩校稽古館の教授を務め漢詩人としても知られる原古処、その娘采ひんなどの墓がある。(現地案内板より)
西念寺の裏山に、秋月藩を代表する儒学者原古処と、その娘で漢詩をもって諸国を遊訪したさいひんの墓がある。古処の墓碑には、生前交流のあった頼山陽と広瀬淡窓によって銘が刻まれている。(現地案内板より)
高浜虚子の句碑 高浜虚子の父池内庄四郎(松山藩士)が武芸修行で、旧藩時代の秋月を訪れている。後に、秋月に来た虚子が感慨をこめて発した句碑が西念寺境内にある。(現地案内板より)
浄土真宗 西念寺の由来
当寺は、浄土真宗本願寺派 法輪山西念寺といい、天正15年(1587年)の創建で、開基は正信(しょうしん)である。その由来をたずねれば、天正15年春3月、当時天下人といわれた太閤秀吉が、九州平定のため西下した時、秋月に立ち寄り、3日滞在したが、うち2日は荒平城へ、残り1日は四ッ小路の小山田昌信宅に泊まったのであった。
当時、秋月種実の家臣に小山田新左衛門昌信という武将があり、大の念仏信者であったところから太閤に随伴して来ていた本願寺門主教如上人は仏門入りを勧めたので、昌信もついに意を決し自宅を寺として仏門へ入ったのであった。この時、教如商人より法輪山西念寺なる山号寺号を賜わり、名も正信と改めたのだった。
時は移り、寛永元年(1624年)秋月藩祖黒田長興が初めて国入りをした時、観音山の麓、現在地を賜い一寺を建立したが、後に文化年間(1804年~1817年)大修復して現在に至っている。当寺には太閤より拝領したと言われる「茄子の徳利」が寺宝として愛蔵されている。
なお、山門は高観音より移された由緒ある山門といわれ、また境内の鐘楼は延宝元年(1673年)に寄進されたものといわれている。この外、境内には原古処の詩碑と高浜虚子の句碑があり、裏手の墓地には原古処、白圭、さいひんをはじめ、吉田平陽、同じくたんけん等、多くの知名士の墓がある。(現地案内板より)