誕生山 聖光院 吉祥寺
吉祥寺
所在地:福岡県北九州市八幡西区吉祥寺町13-11
建保5年(1217年)に弁長を開山、香月則宗を大檀信として創建された寺院です。一時衰退しましたが、文明5年(1483年)に香月興則により再興されました。
当山は浄土宗第二祖鎮西国師誕生の霊場である開山鎮西国師は香月城主の一族香月則茂の子として応保2年(1162年)5月6日呱々聲をあげたがその喜びも束の間、母公は其の日果てなくも此世を去った悲母の冥福を弔うために童子7才にして仏門に入り、22才壽永2年比叡山に登り天台を学んだが後に異母第三明房の頓死を眼前に見て人生の無常を感じ、建久8年法然上人の門に入った。浄土を学ぶこと8年終に浄土第二祖の允可を蒙り九州に帰って、念佛を弘通した。
そして国師は難産で没した母の冥福を弔うために産家の跡に庵を結ばれたが、後建保5年56才の時、当時の香月城主香月七郎則宗が大檀信となって精舎を建立し、誕生山吉祥時と号せられた。本尊腹帯阿弥陀如来は母の冥福と世の婦人のために安産を祈って、国師一刀三禮自ら彫刻をされた霊佛である。丹誠のこる処不思議を末代に残し、安産守護子育の霊験灼然である。(現地案内板より)
参道
参道階段
歌碑
親鸞聖人像
藤棚とツツジ
藤棚
仁王像
仁王像
仁王像
仁王像阿形
仁王像吽形
仁王像阿形
仁王像吽形
弥勒菩薩
来迎陀仏三尊佛
この青蓮華池を極楽浄土になぞらえ、右側蓮台を持っているのは観音菩薩、中心は阿弥陀如来、左側合掌の姿は勢至菩薩です。雲に乗り往生人を極楽に来迎される姿を表しています。
阿弥陀経に「若し善男子善女ありて阿弥陀佛を説くを聞いて名号を執持すること若しは一日、若しは二日、若しは三日、若しは四日、若しは五日、若しは六日、若しは七日、一心不乱なればその人いのち終る時に臨んで阿弥陀佛もろもろの聖象とともに現に其の前に在します。是の人、終る時心顛倒ぜす即ち阿弥陀佛の極楽国土に往生することを得る」とあり又、浄土宗の法然上人は「いけらば念佛の功つもりしなば浄土へまいりなんとてもかくても此身には思いわづらう事ぞなきと思ねれば生死共にわづらいなし」と申されています。
極楽浄土に往生する事を念じ懺悔の念佛、又生かされている感謝の念佛を毎日積み重ねることによりいのち終る時には阿弥陀佛に我が身をあづけ、おまかせし、一心不乱にお念佛すれば心顛倒せず、安らかな心で往生できると説かれています。佛法僧の三宝に帰依し「明るく」「正しく」「仲よく」生活すれば、生死共にわづらいなしの心境になりたいものです。(現地案内板より)(現地案内板より)(現地案内板より)
石碑
本堂
本堂
山号額
誕生山
鬼瓦
三重塔と藤棚
三重塔
鐘楼と藤棚
藤棚と鐘楼
藤棚と鐘楼
鐘楼と藤棚
梵鐘
梵鐘
梵鐘
竹林
白い藤
閻魔堂
閻魔様
浩誉牛山翁 壽塔
香月牛山翁(1656年~1740年)は、江戸中期の名医で中津、小笠原侯の藩医である。75才任を辞して此の地に自ら壽塔を建立し、先祖の香月七郎則宗侯の座像を刻ませて奉納し、玄文5年85才を以って没した。埋骨の墓は山上にある。
歌日 所から花の香月も清ければ かげをならびの岡にたたえん
牛山 香月 啓益 則真 (現地案内板より)