黒崎宿跡
黒崎宿跡
所在地:福岡県北九州市八幡西区黒崎
豊前との藩境に近い黒崎宿は、長崎街道における筑前側の玄関に位置し、参勤交代の制度が確立した寛永年間(1624年~1644年)のころ整備されました。
黒崎はかつて長崎街道東端の宿駅として、江戸時代には福岡と小倉両藩の境界にあり、福岡藩では唯一の上方への渡海船(乗合貨客船)が発着する港をもつ宿場町でした。九州ののど元にあるため、対馬と五島を除く九州西半の全大名や、多くの旅人がこの宿場を利用しました。江戸時代後半には、これら諸藩の御用達や定宿も設けられていました。
宿内には、藩主の別館としての御茶屋(本陣)や町茶屋(脇本陣)が設けられていました。また宿駅の期間である人馬継所、行政上の施設である制札場、関番所、群家、代官所などが完備され、一般の旅籠屋(旅館)や商店も軒を並べていました。
このほか非常事態に備えて、御立退所(火災時の避難所)や御除道(伝染病の発生時に宿内を迂回する道)が設けられていました。(現地案内板より)
豊前との藩境に近い黒崎宿は、長崎街道における筑前側の玄関に位置し、参勤交代の制度が確立した寛永年間(1624年~1644年)のころ整備されました。黒崎宿を通過するには、東西の構口(関番所)で「往来切手」の検査を受けなければならず、役人達が旅人の監視にあたっていました。東構口から西構口までの9町20間(1.1km)の町筋には、大名などが宿泊する本陣・脇本陣や代官所などの諸施設が立っていました。(現地案内板より)
黒崎宿の図
長崎街道と筑前六宿
江戸時代には五街道と脇街道があり、長崎街道は九州唯一の脇街道でした。57里(約240km)のこの街道には25ヶ所の宿場があり、このうち福岡藩内の黒崎、木屋瀬、飯塚、内野、山家、原田の各宿は筑前六宿とよばれ、大変な賑わいをみせました。
長崎街道は当時鎖国体制の日本で、唯一外国との文化交流や通商の窓口であった長崎から西洋の文化や新しい技術などを日本に伝える文明の道として重要な役割を果たしていました。参勤交代の大名や長崎奉行だけでなく伊能忠敬、シーボルトのほか、象や孔雀等の動物もこの長崎街道を通りました。(現地案内板より)
黒崎宿図
黒崎史蹟(上市・下市)
熊手銀天街から熊手3丁目の西構口までの、約400メートル、岡田参道入口より東側を「上市」といい、西側を「下市」と言っていた。宝永元年(1704年)に市が立つようになり、毎月二日、六日、十一日、十六日、二十一日、二十六日が定日であった。上市、下市はこの市に由来する。
福岡藩郡役所定の一条によれば、宝永元年までは、遠賀、鞍手、嘉麻、穂波、宗像の各郡の者達は諸用の品々を小倉まで調達に行っていたが、これからは黒崎へ新市を立てるから入用の者はここで調べるようにし、そして市を立てる日を決めていた。
当時、小倉は豊前領で他国で諸用を調べるのは筑前の国としても損失であるとの筑前黒田藩の配慮であったと思われる。それに当時、藤田は郡家、代官所もあり、春日神社前には宿駅の人馬継所があり、長崎街道筑前六宿の終点で栄えていた。
熊手村の方にも何か村人たちの利益になることをおこす必要があると考えられ市が設けられたと思われる。藤田、田町が江戸時代の宿場町としての官庁街であるなら熊手町は商人の町だった。(現地案内板より)
たぬきさん