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東北山 延命寺

延命寺

所在地:福岡県北九州市小倉北区上富野4丁目2-18

禅宗黄檗宗の寺院です。六地蔵尊像や小さな仁王像があります。

延命寺18

本尊は、延命地蔵菩薩と十一面観世音菩薩です。

延命寺1

延命寺略史

桓武帝の延暦21年(802年)僧最澄入唐に際し九州に下り、諸方の霊跡を巡拝して航海の安全を祈願した。その途中豊前下毛郡の亀山八幡大菩薩の庵に参篭し、一夜霊夢に感じ寺を山下に建て大菩薩の尊像を安置した。是が延命寺の起源である。菩薩の霊験あらたかで参詣の人々の絶えることは無かったが、その後九百年の歳月を重ね荒廃した。宝永元年(1704年)小笠原二代藩主忠雄公御帰依の名僧霊済法印大いにこれを嘆き、今一度名刹の昔に復興したいと、再興を忠雄公に願い出で、正徳元年(1711年)城外の赤坂山上に大伽藍を創建し延命寺をここに移し、更に足立山不老山下より東照大権現宮をも移し、延命寺の住僧は代々東照宮の別当も兼務することとした。
延命寺は小倉城の鎮城の東北鬼門に当り山号を東北山と名し、藩主より三百石の寺領を賜る。この時、忠雄公の御生母で深く仏法に帰依されていた永貞院大姉が父君福島正則公の追善供養の為、城内に諸宗の名僧を召見し千僧会を供養し、随喜感嘆の余り延命寺の境内に千体地蔵法華塔を建立された。
その後延命寺は青蓮院宮の御配下に移され九州窯払い座頭の総支配地になった。また赤坂山上の眺望は遠くに霞がたなびき眼下には白帆が往来し、領内第一の絶景で、忘言、臨海の二亭を築かれ小笠原蔵人の別野を営む処となった。この壮大な古刹名場も、慶応2年(1866年)の豊長の変に兵火にかかり、悉く灰塵に帰した。その後明治初年(1868年)黄檗宗の田中芝和尚が菜園場にあった妙行寺を引移し小庵を建て不老庵と名し、隠遁の居とし豊長の変陣没兵士の霊を慰めた。芝玉和尚の没後、黄檗宗前管長鷲峰芝石大和尚、灰塵に帰した旧跡を惜しみ、元延命寺境内の観音堂に残存する古仏像を現在地に移し東北山延命寺として復興し現在に到っている。宗派は禅宗黄檗宗である。(現地案内板より)

延命寺3

小さな仁王像阿形

延命寺の入口の石柱の上には、小さな仁王像が鎮座しています。

延命寺19

延命寺24

延命寺2

小さな仁王像吽形

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延命寺23

延命寺17

本堂前の大きな仁王像

延命寺4

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大きな仁王像阿形

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延命寺13

延命寺10

大きな仁王像吽形

延命寺11

延命寺12

延命寺9

本堂

延命寺28

「海西第一勝」の額が掲げられていました。

延命寺29

波の彫刻

延命寺22

軒瓦には三階菱があしらわれていました。

延命寺27

延命寺14

延命寺15

鬼瓦

延命寺25

延命寺六地蔵尊

人間は生きている間の行いによって次の世界に生まれ変わると言われています。それが仏教の説く、「六道輪廻」です。六道とは、人々がこの世で行なったそれぞれの行為の報いとして、死後に必ず行かなければならない世界、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天上道、この六つの世界をいいます。
お地蔵様は、お釈迦様が亡くなられて次の仏陀として、弥勒菩薩がこの世に降りてこられるまでの間、お釈迦様の化身として、六道すべてを救う任を命ぜられ、そこで悩み苦しむ人をお救いになっておられます。その姿をそれぞれ六体の尊像に表したものが、六地蔵尊です。
お地蔵さまは一番身近な仏様として昔から全国で親しまれています。愛らしいお姿はいつの世も人々にやさしい心を植え付けて、この世の苦悩を消してくださいます。
当山にご参詣の際、お地蔵様に手を合わせ清らかな心で納骨堂、お墓にお参りし、ご先祖様の供養をいたしましょう。
当山 住職 (現地案内板より)

延命寺26

延命寺7

延命寺8

不動明王

延命寺21

榊姫記念巌

榊姫は平重盛の次男資盛の女で「榊内侍」と呼ばれ、安徳帝に仕えた。寿永2年(1183年)資盛は越中国となみ山で、木曽義仲に敗れ討ち死にした。以来榊姫は都を追われた平家一門と共に九州に落ち、太宰府、遠賀郡山鹿城(芦屋町)、豊前柳ヶ浦(門司区大里)へと帝を供養してきたが、不孝にも帯下の難病にかかり、老女と共に長浜の海女のとま屋に伏す身となり、「私は死後榊に宿り帯下に悩む人々を救わん」と言い残し世を去り長浜東の高浜に葬られる。その後帯下の病に悩む人榊姫に祈願せば霊験あらたかなりと聞く、大正3年(1914年)高浜榊姫神社の敷地は鉄道敷地となったので、敷地内の岩石にて記念碑を作り延命寺境内に榊姫記念巌を建立した。(現地案内板より)

延命寺16

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