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迎え虎・送り虎

小倉城

所在地:福岡県北九州市小倉北区城内2番1号

小倉城には、小倉城が消失した慶応2年寅年(1866年)に因んで描かれた雌雄一対の迎え虎と送り虎の絵があります。

小倉城7

迎え虎

作:佐藤高越 高さ4.7×幅2.5m 昭和35,36年作・雄
此の虎の額を少し離れて見ると、どこから見ても虎が真正面からこちらを見ます。

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迎え虎はいずれの位置より見るも真正面に見えるところから八方睨みの虎とも言われています。

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慶応2年歳は丙虎、この年は内外多事多難であった。徳川幕府は二次征長の軍を起こし、小倉城はその策戦拠点となり、老中格小笠原壱岐守長行(唐津候世子)が征長の指揮をとった。たまたま14代将軍家茂大阪で病死したため幕軍の歩調を欠き、長軍騎兵隊の進撃の前に城兵は自ら火を放って小倉城を焼いた。これを丙寅(へいいん)の変と云う。星移りり茲に満96年、今年は寅の歳を迎えた。
昭和34年10月、在りし日の小倉城天守閣が復元し、昭和35年には二期工事の着見櫓が完成した。小倉城の復元は藩政時代の戦争の拠点を再現するのが目的ではない。平和の象徴として、観光資源として、都市美の中核を作るにあたった。その目的は十分果たされつつある。
 その小倉城天守閣に、亡焼した寅歳に因んで虎の大壁画一対を掲額した。雄寅の壁画を「迎え虎」と称し、雌虎の壁画を「送り虎」と名付けた。来場の万客を心から歓迎する意味を含めている。古来神獣として神社仏殿、城壁の魔除けに描かれた例は多いが、小倉城ほどの大壁画があるのを未だ聞かない。
大壁画の高さ十尺二寸、幅八尺二寸、一面に一頭だけの虎を描いて他に添景物を見ず、非凡の力作である。迎え虎はいずれの位置より見るも真正面に見えるところから、八方睨みの虎とも激称されている。
 筆者は八幡宮の総社宇佐神宮の抱え絵師、佐藤高越画伯、二虎を描くに35.36両年2ヶ月の日子を費やしている。この経費約百万円は、小倉城関係者の協力を仰ぎ、画そのものは佐藤画伯の無料奉仕によって完成した。
 鑑みて96年前、自焼した小倉城が、この雄雌二頭の虎の大壁画完成によって、再び戦争の過誤を繰り返さないことになるならば幸いである。(現地案内板より)

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迎え虎の画意

この大壁画の画題「迎え虎」は「麗虎招福、千客万来」の対句にのっとって名付けたものですが、名付け得て妙といささか自負している。すなわち画伯の彩管に成る大虎はどの位置から見ても虎の前身が真正面に見え、見るもの右すれば虎も右し、左すれば左して柔和に人なつっこく歓び迎えて呉れるのでありまして、まことに玄妙不可思議の虎と云うほかない。
 しかも群青色のバックに唯一頭の虎を描いただけでこれほどの大作をものした非凡の筆力、画伯の自信のほどが画面にあふれている。若し凡筆であったなら虎に配するに竹、岩または披土の添景物を描いたことでしょう。驚くべき虎の名画と云うべきである。(現地案内板より)

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送り虎

作:佐藤高越 高さ4.7×幅2.5m 昭和35,36年作・雌

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とらっちゃ

小倉城のマスコット「とらっちゃ」
小倉城の迎え虎と送り虎の絵が元になったキャラクターです。小倉城に来場されたお客様をお迎えし、全国に小倉城をアピールすることを使命としています。兜からはみ出すほどの大きな頭がチャーミングポイントです。額の模様は、小笠原家の家紋である三階菱になっています。

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三階菱

小笠原家の家紋、三階菱がデザインされています。

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小倉城の石垣の石

1990年代、勝山公園より出土された小倉城の石垣の石です。

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小倉城のジオラマ

約1,500体の和紙人形で貿易船から見た小倉の城下町の様子を再現しています。

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