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壇之浦合戦壁画

源平壇之浦合戦絵巻

所在地:福岡県北九州市門司区旧門司2丁目めかり公園内

壇之浦合戦壁画は、めかり公園の第二展台前にあります。壇之浦合戦の模様を美しい有田焼の陶板で再現した壁画で、義経、教経、二位の尼、安徳帝、建礼門院などが生きいきと描かれています。

壇之浦合戦壁画1

壁画の概要

長さ:約44m・幅:3m
陶板(主に300mm×350mm×50mmの大きさ)約1400枚を使用。
平成2年10月 北九州市(現地案内板より)
屋外設置の陶板壁画では、日本一の大きさを誇る巨大壁画です。
壁画のすぐそばに展望台と駐車場があります。

壇之浦合戦壁画9

眼下に広がる関門海峡一帯は、日本の歴史の中に華々しく登場し、やがて散っていった平家の滅亡の哀史の地としても有名である。栄華を極めた平家も五年間におよぶ源氏との戦いで追いつめられ、平家一門の存亡をかけて壇之浦に終結した。一方、源氏方も精鋭を集め、史上まれに見る大規模な海戦に臨んだのである。
寿永四年(1185年)三月二十四日卯の刻(午前六時頃)、早鞆の瀬戸(関門海峡)のうず潮の中で海戦が始まった。四千余艘の船が、源氏は白、平家は赤の旗印をなびかせて入り交じった。当初平家が優勢と見られたが、源義経(みなもとのよしつね)の巧妙な戦法が功を奏し、その日十六時ごろ平家の敗北は決定的となった。
おごれる人は久しからず  唯春の夜の夢のごとし
この壁画はうず潮の中で繰り広げられた源平の合戦図である。赤間神宮(山口県下関市)の社宝、安徳天皇縁起図を参考にして描いたものであり、有田焼(佐賀県有田町)の陶板を使用している。(現地案内板より)

壇之浦合戦壁画8

壇之浦合戦想定図の源平壇之浦合戦について

眼下に広がる関門海峡は、一日七百余隻が通貨する国際航路であるが、日本の歴史の中に華々しく登場し、やがて散っていった平家滅亡の哀史の地としても有名である。寿永二年(1183年)栄華を極めた平家も衰えを見せ、長年勢力を争った源氏の木曽義仲に追われ京都を逃れた。
平家は平清盛の外孫安徳天皇を擁して、百艘ばかりの船に乗り、平家ゆかりの地九州の宇佐八幡を頼ったが、平重盛の家人であった、緒方三郎惟義の裏切りにあい、やむなく筑前の大宰府天満宮に入った。しかし、ここも安住の地ではなく、遠賀川河口の山鹿城(芦屋町)に落ちた。城主山鹿秀遠と香月の庄(八幡西区)香月氏とは共に平家を助けたが、山鹿城へも惟義の軍が押し寄せると聞き、安徳帝と平家一門は小舟に乗って夜もすがら響灘を東へ向かい、豊前の柳が浦(現在の門司区大里)に上陸した。
ここに大裏つくるべきよし沙汰ありしかども、分限なかりければつくられず、又長門より源氏よすと聞こえしかば、海士の小舟にとりのりて、海にぞうかび給ひける。平家は柳が浦に内裏(この古事により、今の大里と改められており、大里には安徳天皇の行在所となったと伝えられる柳の御所がある。)をつくろうとしたが、もはやその力もなく、また、長門(下関側)からの源氏の襲撃もあるので、瀬戸内海を東へ逃れた。
東へ進んだ平家は一時勢いをもりかえしたが、摂津の一の谷、四国の屋島で源義経の奇襲にあい敗退、再び北部九州へ向かい、これを追って西下した源氏と関門海峡で対峙した。源氏の船は三千艘、平家の船は千余艘、唐船少々あひまじれり。源氏の勢いはかさなれば、平家のせいは落ちぞゆく。元暦二年三月二十四日の卯刻に、豊前の国門司、赤間の関にて源平矢合とぞさだめたる。すでに源平両方陣をあわせて時をつくる。上は梵天までもきこえ、下は海龍神もおどろくらん…。
(現地案内板より)

壇之浦合戦壁画23

一の谷の戦いや壇之浦の戦いで大活躍した義経も、結局は頼朝の怒りをかい、31歳で自害してしまい非業の最期を遂げました。人の人生や運命とはわからないものです。まさに栄枯盛衰ですね。

壇之浦合戦壁画2

平家物語

寿永四年(元暦二年、1185年)三月二十四日の卯の刻(午前六時頃)、早鞆(はやとも)の瀬戸(関門海峡)のうず潮の中で海戦が始まった。四千余艘の船が、源氏は白、平家は赤の旗印をなびかせて入り交じった。当初平家が優勢とみられたが、源氏の勝利を予言する種々の奇跡が現れて、四国、九州の平家方の寝返りと、船の漕ぎ手を先に倒すといった源義経の巧妙な戦法により、その日十六時ごろ平家の敗北は決定的となった。
 平清盛の妻で、安徳天皇の祖母二位尼は、もはやこれまでと、御座船から八歳の幼帝を抱いて「浪の下にも都のさぶろうぞ」と海中へ身を投じた。帝の母建礼門院もこれに続いて入水、平家の武将もつぎつぎと身を投げ、ある者は鎧を重ね、碇を背負い海に入った。
「おごれる人は久しからず、唯春の夜の夢のごとし」 五年間におよぶ源平両軍の戦いは史上まれに見る大規模な海戦でその幕を降ろした。
 この壁画は、眼下の海峡で繰り広げられた源平の合戦図であり、赤間神宮の社宝、安徳天皇縁起図を参考に描いたものである。壁画中央の御座船に安徳天皇、建礼門院、二位尼の姿がある。御座船の左上、波間に浮かぶ女性は建礼門院、救われ京都に送られ尼となる。御座船の右手、海上を飛躍する武将は源義経。平家の猛将平教経に追われて船八艘を跳んで逃れる。世に義経の八艘跳びという。いるかの群れが見えるのは、いるかの様子で吉凶を占ったことによる。
*平家物語は日本古典文学大系より抜粋。
平成二年十月 北九州市(現地案内板より)

壇之浦合戦壁画3

壇之浦合戦想定図(裏側)壇之浦合戦までの進行

寿永4年(元暦2年・1185年)3月24日
≪未明~6時頃≫平家は彦島にいた。源義経、範頼を迎えて、決戦を得意の海戦に求め、全軍彦島を出て田野浦に終結した。
≪8時~11時頃≫平氏は東流れの潮を利して、九州勢を先陣に、三手に分かれて満珠干珠に進撃し、源氏を包囲せんとした。
≪12時頃≫(開戦)海戦にたけた平氏は源氏を圧倒した。源氏は潮流の変わるまで時をかせがんと、死力を尽くして防戦した。平知盛は源義経を求め、中央突破をはかったが果たせなかった。
≪15時~16時頃≫やがて潮が変わった、西へ流れる急潮に平氏と源氏は攻守ところを変えた。攻撃に移った源氏は平氏の水手、舵取りを矢で射、刀できって船の自由を奪った。激闘数刻、平氏はついに壇之浦に滅びた。  (現地案内板より)

壇之浦合戦壁画18

二位の尼

御座船に乗っているのは、安徳天皇(御年八歳)、建礼門院・平清盛の娘(安徳天皇の母)、二位尼(平清盛の妻、安徳天皇の祖母)である。この後、二位尼は、もはやこれまでと、安徳帝を抱いて「浪のしたにも都のさぶろうぞ」と海中へ身を投じた。

壇之浦合戦壁画11

壇之浦合戦壁画28

波間に浮かぶ建礼門院

波間に浮かぶ女性は建礼門院で、幼帝を追って身を投じたが、源氏方に救われて京都に送られ尼となった。

壇之浦合戦壁画19

義経の八艘飛び

海上を跳躍する武将は源義経であり、平家の猛将平教経に追われて船八艘を跳んで逃れている。これを世に義経の八艘跳びという。

壇之浦合戦壁画20

源義経

壇之浦合戦壁画21

壇之浦合戦壁画22

平家の偽装船

このひときわ大きい唐船は平家の偽装船である。これを安徳帝をはじめ大将分の乗った御座船に見せかけ源氏軍がこれをめがけて襲ってきたところを包囲し、全滅しようという作戦である。

壇之浦合戦壁画12

いるかの群れ

いるかの群れが見えるが、戦い半ばにして早鞆の瀬戸にいるかの大群が突如出現した。いるかの様子で吉凶を占ったところ、平家に凶と出た。

壇之浦合戦壁画13

揚羽蝶紋

壇之浦合戦壁画14

戦う侍たち

壇之浦合戦壁画10

壁画をじっくり拝見すると中々興味深いです。壁画の中に、いかりや長介さんや、高木ブーさん似た侍を発見。イルカさんも吃驚です。
余談ですが、私はいかりや長介さん大好きです。踊る大捜査線の時のキャラクターも好きだけど、テレビのサスペンスドラマの弁護士役がすごく好きでした。TBS月曜ミステリー劇場 告発弁護士シリーズ弁護士猪狩文助(CX 金曜エンターテイメン)の壁ぎわ税務官も好きでした。飄々としていて、「やる時はやる!」かっこいいです。人生の楽園のナレーションも好きでした。音楽家としてのいかりやさんも渋くてかっこよかったです。それとすごく気転の利いた軽妙な話し方、あのように台詞がすらっと出たらいいなぁと、いつも思っていました。

壇之浦合戦壁画15

壇之浦合戦壁画16

壇之浦合戦壁画4

壇之浦合戦壁画5

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壇之浦合戦壁画7

壇之浦合戦壁画17

壇之浦合戦壁画24

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壇之浦合戦壁画26

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