高野山真言宗 瑠璃山 恵光院
恵光院
所在地:福岡県東区馬出5-36-35
筥崎宮の参道横にある、筥崎宮の結縁寺です。高野山真言宗 瑠璃山 医王密寺 恵光院と称し、弘法大師を宗祖とします。寛永年中(1624年~1644年)筑前国第二代藩主・黒田忠之公を開基とし、筥崎宮座主坊 五智輪院 正範大和尚により開山されました。
燈籠堂(恵光院)
天正15年(1587年)、九州平定を終えた豊臣秀吉は筥崎宮に滞陣し、焼け野原になった博多の復興を命じました。そのおり、茶人の千利休は、豊臣秀吉や博多の豪商神屋宗湛らを招き、堂の周辺で茶会を開きました。当時、堂は筥崎宮の境内にありましたが、明治維新の神仏分離により当寺に移されました。創建当初は三重閣の堂で、上閣に燈籠をかかげ、それぞれに観音様を安置していたと伝えられています。現在、堂の前には樹齢約200年緒菩提樹の木があり、6月には見事な花を咲かせます。(現地案内板より)
高野山真言宗 瑠璃山 医王密寺 恵光院
瑠璃山医王密寺恵光院は官幣大社筥崎宮の西約300メートルに位置し、高野山真言宗に属し、総本山金剛峯寺の末寺で薬師如来を本尊とする。
当院の創建は後水尾天皇の御宇寛永の中頃で、筑前藩主黒田忠之公の開基、開山は八幡筥崎宮座主坊五智輪院中興法印正範大和尚である。
元筥崎宮一社中の、結縁寺とされ、祠宮各家並に歴代座主と、一般信者の、霊碑を安置し、日夜供養をなし来たものである。又、筥崎宮座主中興以降歴代の墓がある。(現地案内板より)
瑠璃山
主な宝物は、宗祖・弘法大師、本尊・薬師如来、鎮守・八幡宮、毘沙門天王、辨財天、大黒天、愛染明王。
釋迦如来並びに脇士、不動妙王、彌勒如来は、福岡市有形文化財に指定されています。(現地案内板より)
元筥崎宮結縁寺 恵光院
九州三十六不動霊場第三十五番札所
筑前国三十三観音霊場第四番札所
菊の御紋
巴藤
燈籠堂
千利休居士 點茶の蹟
天正15年豊臣秀吉公全九州を平定するや、凱旋の途次、6月、二十余日間に亘り、箱崎に滞陣し、今の社殿を以って、本營となす。
しかるに、社頭は、名にし負ふ千代の松原の清境にして風雅の英雄を保ち 自ら閑日月あらしめたるにや、點茶の催、屡々なりしが、利休居士は月の十四日、秀吉公を請して、燈籠堂に茶を奉れり。
此の燈籠堂は承元2年の創建と伝えられ、本尊は、醍醐天皇代に箱崎の海中より現れたと伝えられる十一面観世音菩薩の石体座像にして、南宋時代の作と稱せらる。
堂は、もと筥崎宮社頭の松林中にあり明治3年、恵光院境内に移転す。堂宇は、旧観全からずと雖も、尚古雅の風、掬すべきものあり。
福岡市教育会(現地案内板より)
點茶の遺蹟
今を去る四百余年前、天正15年、九州の役を了へた豊臣秀吉は白砂青松の地、八幡筥崎宮の社頭に凱旋の軍旅を慰め、海外雄途の経書、勲功ありし諸将兵の行賞、永禄、天正以来廃墟となりし名津博多の復興、歌の會の風雅の催し、茶道の巨匠千利休居士に茶を點せしむる等六月初旬より晦日まで二十有余日間、その活動は實に雅麗なる桃山時代の一大絵巻物を憶はせるに足るものがあった。かくて千利休居士は秀吉に6月14日社頭の燈籠堂に於いて茶を献じた。
この燈籠堂は承元2年の創立にかかり、天正15年筥崎滞留中であった千利休居士は此堂の風趣が結構であるとて圖にして歸洛の土産にしたと筑前國続風土記に見えている。後ち寛政9年に筑前藩主によって修築を加えられ、明治3年筥崎宮神域より筥崎宮結縁寺であった福岡市馬出真言宗恵光院内に移轉せられた。
此堂の本尊は承元2年筥崎宮社頭の海中から出現したものと伝えられる。南宋時代の名作十一面観世音菩薩(石像)である。堂は昭和5年3月福岡県史蹟に編入され昭和10年12月には福岡市教育会(福岡市教育委員会)より史跡顕彰の榜示板が建設せられている。(現地案内板より)
十一面観音菩薩
十一面観世音菩薩を念ずれば、密教の説に依り、十種の利益を得ることができます。一に諸病の苦を離れ、二に如来の撫愛を蒙り、三に財穀を獲得、四に怨敵も害を加えず、五に貴人の慰問を受け、六に毒蛇寒熱の苦を免れ、七に刀杖の害を受けることなく、八に水に溺れず、九に火に焼かれず、十に天命を全うする。以上の如く、悉く現世利益を主とし、又悪夢を感見した時に、その災害を免れるとされて居ります。 拝記
御真言には、「おんまかきゃろにきやそわか」(現地案内板より)