臨済宗大徳寺派 石城山 妙楽禅寺
妙楽寺
所在地:福岡県福岡市博多区御供所町13-6
ういろうの発祥の地と言われているお寺です。大応国師(南浦紹明)の法弟・月堂宗規が開基です。
妙楽禅寺
正和5年(1316年)の開基とされ、山号を石城山と号します。山号の由来は、当時海浜の石塁上に堂々営構された当寺が、海上から見るとまるで石城のように見えたことにちなむものです。創建当初は博多湾岸の沖の浜にあり、遣明使一行が宿泊するなど重要な外交施設のひとつでした。天正14年(1586年)に一時焼失しますが、慶長5年(1600年)福岡藩初代藩主黒田長政の入国後、この地に移転されました。墓所には、黒田家重臣の墓石が建ち並び、博多の豪商神谷宗湛の墓が残ります。(現地案内板より)
石城山の額
開山堂
この建物は開山堂といい、当寺開山月堂宗規禅師並びに歴代住職をお祠りする御堂であり、「水月庵」と号する。現在の建物は、元禄11年(1698年)に再建され、嘉永6年(1853年)に大改修、大正年間、真向いから現地に移築している。昭和56年更に大改修し、その後も度々修復を加え、現在に至っている。
中には、執権北条時頼公・黒田監物一族・伊藤小左衛門一族・藩医鷹取養巴歴代の位牌も、お祠りしている。開山堂は江戸後期の建物です。(現地案内板より)
開山堂の額
開山堂の額字は、元徳元年(1329年)明極楚俊禅師(京都南禅寺に住す)が元より来日した時、月堂禅師の為に書かれたもの。堂内の聨と水月庵の額・半鐘は、元禄11年(1698年)のもの。また、この場所には寛永16年(1639年)黒田監物親子の菩提の為に建てられた即宗庵が江戸末期まで存在した。(現地案内板より)
本堂
呑碧
呑碧の額は、海の側に伽藍を構えていた頃、地上30mの高さに聳えていた3重の楼閣に由来しています。
ういろう伝来之碑
元が滅んで明になった時に「陳外郎」という外郎家の一番始祖・陳延祐が、長慶天皇の御代正平23年(1368年)に筑前博多にやってきて、礼部員外郎という官職名の一部を取り、陳外郎(ちんういろう)と称しました。その外郎家で接待用に使われていた菓子が外郎(ういろう)とよばれるようになりました。
永の字の瓦
瓦
博多塀
博多べいは戦国動乱の兵火をくぐった焼け石、焼け瓦などを、郷土復興の悲願を込めて粘土で塗りこめて作ったものです。お櫛田さん(櫛田神社)をはじめ、博多のあちこちでみかけます。
博多べい
博多塀の中の軒瓦
博多塀の中のえびす像
妙楽寺の博多べいの中には、えびすさんがいらっしゃいます。にこやかでふくよかな表情、正に恵比須顔です。脇には鯛を抱えて、片膝を立て、竹竿を持っていらっしゃいます。
旧御供所町の石碑
博多塀の中に鎮座されているえびす様です。右手に竿を持ち、左手に鯛を抱えています。