承天寺の石碑
承天寺
所在地:福岡市博多区博多駅前1丁目29-9
承天寺の境内には、饂飩蕎麦発祥之地の碑、御饅頭所の碑、満田彌三右衛門の碑などがあります。
門をくぐり、右側の境内に足を進めると「饂飩蕎麦発祥之地の碑」「御饅頭所の碑」、博多織の祖とされる「満田彌三右衛門の碑」が鎮座している。
御饅頭所の碑
仁治2年(1241年)、中国の宋より帰国した聖一国師が、ある日、禅の布教に出向いた先でとある茶店に立ち寄ったところ、茶店の主人に心づくしの歓待を受けました。それに喜んだ聖一国師は、南宋から持ち帰った饅頭の製法を教え、「御饅頭所」の看板まで書き与えました。これにより、博多の地が饅頭発祥の地とされています。看板は現存し、東京の「虎屋」が所蔵。その古い複製が博多松屋に伝えられています。(現地案内板より)
饂飩・蕎麦発祥之地の碑
仁治2年(1241年)、中国の宋より帰国した聖一国師は、羹、饅、麺の製法とともに、製粉技術のおかげで、日本の粉食文化が大きく発展したことは言うまでもありません。この碑は、博多の地における聖一国師の偉業を後世へと伝えるものです。この石碑の「御饅頭所」の文字は、虎屋所蔵の看板の文字を彫っています。(現地案内板より)
満田彌三右衛門之碑
今から760余年前の鎌倉時代、博多の商人・満田弥三右衛門翁が承天寺の開山・聖一国師に従って、宋(今の中国)に渡り、織物技術を持ち帰り、織物を織り始めました。これが博多織の起源です。博多織の始祖・満田彌三右衛門翁の遺徳を偲び慰霊碑を建立致しました。
博多織工業組合(現地案内板より)
満田弥三右衛門
鎌倉時代の嘉禎元年(1235年)、聖一国師とともに中国・宋に渡った満田弥三右衛門は、6年後の仁治2年(1241年)、織物・じゃこう・素麺・箔・朱の製法を日本に持ち帰りました。これらの製法は博多の人々に広く伝えられましたが、その中の織物技術のみ家伝とされ、その後、独自の技法を加えながら現代に伝わっているのが「博多織」です。この名称は、江戸時代の福岡藩初代藩主・黒田長政が、幕府への献上品としたことから、「献上・博多織」と呼ばれるようになりました。(現地案内板より)
箒目
蒙古碇石
石庭
石燈籠
石燈籠
お地蔵さん
お地蔵さん
お地蔵さん
石燈籠とお地蔵さん
古木と睡蓮鉢
手水鉢
蹲
蹲
烏樞志摩明王
トイレの神様です。
鐘楼
川上音二郎之墓
博多生まれの音二郎はオッペケペー節と書生演劇で人気を博し、妻貞奴と共に数度の欧米公演で日本の演劇芸術を強烈に印象付け、また日本近代演劇の祖でもあります。残念なことにこのお墓の真後ろにマンションの建設が計画されましたが、私たちはマンション建設に反対し協議によって、計画は凍結中です。
平成22年11月11日は没後100年です。
川上音二郎忌世話人会 長谷川 法世(現地案内板より)