安國山 聖福寺
聖福寺
所在地:福岡県福岡市博多区御供所町6-1
臨済宗妙心寺派の寺院です。創建は建久6年(1195年)、開基は栄西です。日本最初の本格的な禅寺です。
勅使門
切妻造本瓦葺で、正面柱間九尺、垂木を柱真に合わせ疎垂木で、柱間に八枝、外側は破風板共に二枝です。文政十丁亥年(1827年)に修築したの棟札が存在し、1700年初頭以前のものと思われます。この勅使門は、通常は開けられる事はありません。
勅使門の門扉
大きな十六弁の菊の御紋章が両扉に掲げられています。
石造太鼓橋
山門
以前の山門は、志摩桜井神社の観音堂を移築し、楼上には佐田仏師の十六羅漢像がまつられていましたが、慶応2年(1866年)に焼失しました。この時、「扶桑最初禅窟」の勅額は幸いに落下して焼失を逃れた。明治44年(1911年)に再建されました。上層中央部の天井には冨田渓仙作の龍の天井絵、中央正面には高田又四郎作の千手観音立像・2羅漢像が祀られ、周囲には山崎朝雲作の16羅漢像が安置されています。
扶桑最初禅窟 聖福寺
聖福寺は、建久6年(1195年)に将軍源頼朝公よりこの地を賜り、栄西禅師を開山として創建された日本最初の禅寺です。後鳥羽上皇より、日本で最初の禅寺である事を意する「扶桑最初禅窟」の勅号を賜りました。境内は、創建当初には方八町(約900m四方)を戴き、塔頭も38院(現在は6院)を数えました。栄西禅師の没後、室町幕府の衰退と戦乱により荒廃しますが、天正15年(1587年)の太閤町割により寺域も方四町に狭められ、現在に至っております。勅使門、山門、仏殿、方丈が直線上に並んだ禅宗様式の伽藍配置をとどめる境内は国の史跡に指定されています。
栄西禅師はわが国の茶祖としても知られ、佐賀県脊振山霊仙寺の石上坊や当寺に茶種をまき、ここから京都府の栂尾や宇治にひろめたといわれています。
歴代高僧のうち、江戸時代末期の僊厓義梵禅師は「博多の仙厓さん」と親しまれ、洒脱に描く禅画は広く世に知られています。(現地案内板より)
聖福寺は次の寺院と安山一派をなしている
山内(塔頭)寺院:幻住庵、圓覺寺、節信院、瑞鷹庵、西光寺、廣福庵
山内付寺院:戒壇院(太宰府)、泰清寺(小倉)
東部寺院:勝楽寺(箱崎)、長性寺(箱崎)、光國寺(土井)、清谷寺(久山)、報恩寺(香椎)、如意輪寺(香椎)
西部寺院:天福寺(油山)、常楽寺(今宿)、龍松寺(周船寺)、荘厳寺(前原)、徳門寺(宮浦)、東林寺(唐泊)(現地案内板より)
扶桑最初禅窟の額
山門に懸かる「扶桑最初禅窟」の額は、1204年に後鳥羽天皇から送られたと言われています。扶桑とは日本を指す言葉で、日本最初の禅寺(道場)という意味です。
仏殿(改築前)
天正17年(1589年)耳峯玄熊によって中興されまし。正面三間の桟唐戸は外に開きます。両端には丸窓があるが、これは黄檗宗の影響と云うよりも栄西禅師が渡った南宋の寺では丸窓が多く見られることに拠るものと考えられます。
800年遠諱大法要を迎えるに当たり、2年余の歳月をかけ増築を行い、平成24年9月8日落慶法要が行われました。古来の禅宗様式を残し、丈六三世仏(釈迦、弥勒、弥陀)の再現安座しました。鎌倉時代創建当時の姿をとりもどした。三世仏は丈六では珍しい乾漆で造られている。天井龍の彫刻も狩野安信(探幽の末弟)の画をもとに彫られました。
大仏
総門
名島城にあったものを移築したと言い伝えられています。四脚門、切妻造本瓦葺である。足利紫山書の「安國山」の木彫りの額が掛かっています。
安国山の額
足利紫山書の「安國山」の木彫りの額が掛かっています。
総門から
庫裏
天正17年(1589年)中興の後、120世鶴州禅壽が改築し、明治42年(1909年)128世東瀛自関の時改築を行いました。現在の庫裡玄関は、昭和43年(1968年)に大改築をしました。みごとな欅の大黒柱があります。
唐門と筋塀
唐門の両脇には筋塀があります。筋塀とは、定規筋と呼ばれる水平線が引かれた築地塀のことです。この定規筋は皇室に由来する格式を表し、その格式により三本、四本、五本の三種類があり、五本を最高位とします。聖福寺の筋塀は最高位の五本筋です。